このページの先頭です
サイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

令和5年度企画展「徳川公爵家のバックヤードー最後の家令の見た半世紀」

更新日:2023年10月10日

調査・研究を進めた貴重な資料を13年ぶりに公開します!

 明治13年(1880年)に生まれた古澤秀彌氏は、幼少時から江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜の屋敷に勤め、52年間徳川家のために尽くしました。同氏は着実に昇進を重ね、昭和8年(1933)以降、退職する昭和22年(1947)までの14年間、実質的な職員トップとして、その重責を果たしました。この当時、最上位の職員・家令(かれい。=ほかの職員をまとめ、家政を任される責任者)は空席だったため、古澤氏は家令心得(かれいこころえ)という職位でした。同氏には歴代当主から感謝の気持ちを込めて徳川家に伝わる品々が譲られ、平成22年、戸定歴史館はこれらの譲られた品を核とする「古澤秀彌氏旧蔵資料」の寄贈を受けました。
 調査・研究を進んだことで、徳川家のお殿様として人々の注目を集めた歴代当主たちの人生の裏には、心を一つにして家政を支えてきた数多くの職員たちの姿があったことが明らかになってきました。これまであまり知られてこなかった職員たちの仕事ぶりにご注目ください。

会期 

2023年10月7日(土曜)から2024年1月8日(月曜・成人の日)まで 

前期

2023年10月7日(土曜)から2023年11月5日(日曜)

後期

2023年11月11日(土曜)から2024年1月8日(月曜・祝日)

【!注意!】

会期中、休館日があります。展覧会を見られない日があるのでご注意ください。

休館日
  • 11月7日から10日に展示替え休館
  • 12月26日から1月4日は年末年始休館

※戸定邸は、定休日以外は見られます。戸定邸は、歴史館が休館でも開いている日があります。

展覧会構成

Door OPENS プロローグ 将軍の肖像

 最後の将軍の姿を撮影した幕末のオリジナルプリント。古澤秀彌(ふるさわひでや)はその貴重な写真を徳川家より託され、ご子息の秀信(ひでみち)氏が受け継いできました。なかには、これまで複写や部分複写しか知られていない写真もありました。ガラス製の原版(湿板)から撮影者が直接焼き付けた鮮明な画像は、既存の複写や着色写真ではわからなかった豊富な情報を読み取れます。
 今回の展示では、2010年の展覧会の時点ではまだ判明していなかった最新の研究成果を盛り込んでいます。撮影されてから150年以上の時を経た写真の「いま」をご覧ください。

Door 1 少年秀彌と徳川慶喜邸

 慶喜は維新後、明治35(1902)年6月まで、徳川宗家(=旧将軍家)の隠居という立場にありました。彼は徳川宗家本邸とは別の邸宅(徳川慶喜邸)に住み、明治30(1897)年11月までは静岡で暮らしていました。華族家には、家令(かれい)・家扶(かふ)・家従(かじゅう)・家丁(かてい)という職員を配置することが認められていました。慶喜邸の場合、徳川宗家が雇用して慶喜邸に配置する形をとり、家扶以下の職員が勤めていました。
 明治12(1879)年8月、秀彌の父方の伯父・古澤鉄三郎が小遣取締として採用され、後に家丁に昇進しました。父を早く亡くした秀彌は、鉄三郎と暮らしていましたが、明治26(1893)年4月、この伯父も亡くなってしまいます。12歳の秀彌には徳川家より月3円の養育費が支給されました。鉄三郎の働きぶりが評価された、格別の計らいと考えられます。
 その後、秀彌は、同年代の慶喜の息子たち(久→後に慶久と改名、誠、精)の御相手(=遊び相手)を勤め、15歳になった明治28(1895)年12月、慶喜邸の家丁となりました。ここに、彼の52年間にわたる徳川家職員としての歩みが始まったのです。

Door 2 徳川公爵家の成立 家令への歩み

 明治35年(1902)6月、慶喜は徳川宗家から分家し、一家を創立、同日公爵を授けられました。宗家の職員であった古澤は、新しい公爵家の職員となりました。慶喜は明治43(1910)年12月に同家の最高運営規則「家範」を発布し、慶久に家督を譲って隠居します。亡くなったのは、その3年後でした。
 同家の家政は当主と職員だけで運営されたわけではなく、家扶以上の幹部職員の任命など重要事項の決定には顧問会の承認が必要とされました。大正5(1916)年6月、古澤は慶久の推薦によって、家扶補に抜擢されます。そこには彼と慶久との間の「主従」関係を越えた人としての深い絆がありました。
 ところが、大正11(1922)年1月、慶久が37歳の若さで急逝、わずか8歳の慶光が当主となりました。幼い慶光に代わり、母である慶久の妻・實枝子が公爵家を守る立場となったのです。
 昭和8(1933)年6月、家扶・家従4名が顧問会に古澤の家令任命を求める嘆願書を提出しました。家令は外部から社会的地位を確立した人物を招くのが慣例だったため、先例のない現場の意思でした。これは、實枝子の死去や、家令を16年勤めた三輪修三の退任という危機的状況を受けてのもので、人格、能力、経験を満たす適任者は古澤だけでした。
 同年12月、古澤は「家令心得」に任命されました。古くからの人が去りゆく中、彼は慣例の壁を越え、徳川公爵家の最高位の職員として、実質的に家令の重責を担っていくのです。

Door 3 家令心得・古澤秀彌

 古澤が実質的にその役目を果たした家令とは、家政全般を総括する役職です。事務、財政、人事などの重要事項を統括する立場ですが、そのほかにも様々な職務を担っていました。古澤が家令心得に在職している間に記してきた数々の文書や記録からは、年中行事や祭祀の執行、他家職員との交際、蔵で保管する刀剣や軸物の管理、各部屋に飾る軸物の把握など、職務の全体像が浮かび上がってきます。彼が管理し、のちに拝領することになった公爵家の軸物や、尊敬していた老女・一色壽賀の書、家扶時代に携わった高松宮宣仁親王と慶久の2女・喜久子の婚儀に関わる品など、徳川公爵家の出来事とともに、その職務を反映した品々を見ていきましょう。

Door 4 徳川家での日々

 古澤は徳川公爵家3代の当主とその家族に仕え、行動を共にし、さまざまな行事に参加しました。また、折にふれて徳川家から品物や写真を拝領していました。慶喜・慶久・慶光の歴代当主をはじめとした徳川家の人々や山岡鐵舟などゆかりの人物の書画、中には、当主たちが皇室から賜った銀盃や記念盃も含まれています。古澤はこれらの品々を大切に保管し、特に軸物は、他の人に任せることなく自分自身で時期を決めて飾っていました。
 慶喜家の人々に寄り添うように常に共にあった古澤の姿は、当主たちの写真の中に残されています。彼が徳川家に勤めた52年間の日々の各場面を振り返ってみましょう。

Door CLOSES エピローグ 公爵家の終焉と最後の仕事

 第二次世界大戦は徳川家の生活に大きな変革をもたらしました。第3代当主・慶光は中国へ出征し、慶光の夫人・和子たち家族は軽井沢への疎開を余儀なくされます。小日向邸の留守を預かったのは、古澤をはじめとする職員たちでした。
 戦後、華族には莫大な財産税が課せられ、同家でも小日向邸(現在の文京区春日2丁目)を処分する必要に迫られます。昭和22(1947)年5月、現行憲法施行により、公爵家としての歴史は終わりました。家族は静岡県興津、そして同県瀬名へと2度の引越しをしています。
 歴史的な転換期に奮闘を終え、病気になった古澤を、当主の慶光自らが見舞いました。「御厚情誠ニ難有、感泣ニ堪ヘズ」と古澤はその感激を記しています。昭和26(1951)年2月、古澤秀彌は亡くなりました。人生のほとんどを徳川家に捧げ、誠実に生き抜いた「最後の家令」の一生でした。
※展示構成、展示内容は、資料の状態をみて変更する可能性があります。
※資料を光による劣化から守るため、展示室内は照明が暗く設定されています。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

本文ここまで


以下フッターです。