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通常展「戸定邸再考ー徳川昭武 ひそかなお気に入り」

更新日:2023年2月3日

徳川昭武が住んでいたころの戸定邸とは

展覧会概要

 国指定重要文化財の戸定邸(旧徳川家松戸戸定邸)は、水戸徳川家当主を退いた徳川昭武の私邸として建設されました。水戸徳川家の本邸(小梅邸)のように広く豪華な建物・敷地ではありませんが、戸定邸は各所に機能美を兼ね備えた意匠が施されています。昭武の美学と戸定邸に秘められた彼のこだわりについてご紹介します。
 本展では、所蔵する歴史資料、古写真及びそのデータを活用し、徳川昭武が居住した明治期の戸定邸を時間軸の中心とし、居住空間としての戸定邸に改めて目を向けます。現在、戸定邸は国の指定重要文化財として保存されていますが、徳川昭武の生活習慣や嗜好等もあわせてご紹介しています。展覧会をご覧になった後は、かつて生活の場であったことを意識して戸定邸を見学いただければと思います。

会期

令和5年2月4日(土曜)から令和5年5月28日(日曜)

展示詳細

プロローグ 戸定邸を建てるまで

 徳川昭武は、水戸徳川家9代当主であった徳川齊昭の18男として生まれ、水戸徳川家の中屋敷(東京都文京区弥生/現:東京大学工学部)や水戸城(茨城県水戸市)などで育ちました。成人後、父・斉昭が開設した庭園・偕楽園(茨城県水戸市)や水戸徳川家の所領地・大能牧(茨城県高萩市)の写真を自ら撮影しており、父・斉昭ゆかりの場所に愛着を感じていた様子がうかがえます。
 明治4年(1871年)、昭武は江戸時代に水戸徳川家下屋敷だった小梅邸(東京都墨田区/現:隅田公園)を修繕して移り住み、水戸徳川家当主時代の生活拠点としていました。小梅邸には和館と、後に増築された洋館があり、明治天皇・皇后の行幸啓など正式な饗応に対応できる屋敷でした。戸定邸を住まいとした後も、昭武の子供たちが通学のために小梅邸で生活するようになったほか、当主を退いた昭武自身も東京で用事があるときなど、折りにふれて小梅邸に滞在し、戸定邸と本邸とを行き来する生活を送っていました。

表―接遇の場/徳川昭武のお気に入り

 戸定邸は「表(おもて)=来客を迎えるなど外部との接点となる区画」、「奥(おく)=家族が生活する区画」に分かれていたと考えられます。戸定邸では、表座敷棟、玄関棟(使者の間を含む)が「表」の機能を持っていたと考えてよいでしょう。これは、江戸時代の大名の居城や屋敷と同じように、部屋や区画に役割を持たせる様式ですが、戸定邸は規模が縮小していることもあり、本来「奥」に位置する御居間(昭武の書斎)が「表」にあたる表座敷棟に位置している点が特徴です。
 昭武は「表」の空間に特に気をつかい、座敷から見える景色にもこだわりました。建物の中から外を見た時、柱が風景の邪魔をせず、庭園の木々も富士山をはじめとした高台からの眺めを楽しめるように配置されています。応接間として使用した御本間(客間)の床の間に外国から持ち帰ったものや贈り物を大切に飾るなど、こだわりの空間を自ら演出していました。

奥―生活の場/家族との日常

 戸定邸は、徳川昭武個人の住まいとして建てられました。時折、皇族や身分の高い人物が訪れることもありましたが、基本的には昭武本人と家族が日常生活を送る邸宅でした。戸定邸の部屋を見ると、中座敷棟、奥座敷棟、離座敷棟、湯殿などは「奥(おく)=家族が生活する区画」の機能を持っていたと考えられます。現在の生活スタイルでは、家族が集まって時間を過ごすリビングがお客様をおもてなしする応接間として使用されることも珍しくありませんが、戸定邸では用途に応じて部屋を使い分けていたと考えられます。
 昭武が自ら撮影した幼い子供たちをはじめとした家族の写真、母・秋庭が使っていた文房具などからは、昭武と家族が戸定邸で過ごした日常が垣間見えます。

季節のしつらい

 現在の戸定邸にはほとんど調度品が置かれていませんが、徳川昭武や家族が住んでいた頃の戸定邸は、季節や行事などによってしつらい(=調度、施設などを設け整えること)が変わっていたはずです。雛まつりには何段もある立派な雛壇に内裏雛をはじめとしたさまざまな人形が飾られたことが写真からわかります。床の間には季節や目的にあわせた掛軸が飾られ、水戸徳川家から譲られた由緒ある刀が飾られることもありました。親族が集まった際の集合写真では、写真に写る人たちの背後に大きな屏風があることも見て取れます。また、昭武は、実用的な目的以外にも、雪が降った庭園にウサギの置物を置いて写真を撮ったり、季節の遊びを楽しむ子供たちを写真に残したりしていました。

パネル 戸定邸男性職員の職位/「表」と「奥」の仕事

明治3年、華族家に仕える職員に関する法律(「宮並ニ華族家人ノ職員ヲ定ム」/明治3年太政官布告第581号)が施行されました。この法律にならい、華族である水戸徳川家、松戸徳川家も職員を雇用していました。男性職員は、家令、家扶・家従・家丁などの職位があり、それぞれの役割で家の運営・管理を担いました。戸定邸では、金銭管理や事務を取り扱ったり外の人間に対応する「表」の職員は、玄関棟を主な仕事場所として日々業務をこなしていました。
 女性職員は、家族の生活空間である「奥」で、炊事、洗濯、裁縫、子供たちの世話など徳川家の日常生活を支えました。戸定邸勤務の職員には、水戸徳川家から配置転換になった人(家従以上・注釈1)と、松戸で現地採用になった人(使丁・注釈2、御膳所女中・注釈3)がいました。家従クラスの人は戸定邸の敷地内に建てられた職員寮に住む人もいましたが、現地採用された使丁・女中など自宅から通勤する人もいました。
(注釈1)家従以上の職員は本邸からの出向者が多いが、戸定邸で採用され昇格する人もいた。
(注釈2)使丁は水戸藩時代の領地出身の人が多かったが、松戸近郊出身者の採用もあった。
(注釈3)御膳所女中は松戸近郊出身者が多かったが、水戸藩時代の領地出身の人もいた。

展示品

 約65点(作品保護のため入れ替える品や、複写写真、パネルを含みます。)

ご注意ください!

  • 期間中、作品保護のため、一部展示替えを行います。
  • 作品のコンディションによって、展示内容が変更になる可能性があります。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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