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展示情報

年間展示

開催中の展示

通常展「万博・博 ―1867パリから、はじまる―」

●展示内容

 徳川昭武が日本の代表として参加した1867年パリ万国博覧会は、日本の国際デビューのきっかけとなりました。昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら万博経験者は、明治維新後の近代日本を牽引する役割を果たしました。今回の展覧会では、昭武と、彼の教育責任者としてパリ万博に随行し、後に美術・博覧会行政の中心となった山高信離(のぶあきら)の視点から、1867年から1900年までの10回におよぶ万博を紹介します。

●会期

令和7年10月4日(土曜)から令和8年1月12日(月曜・祝日)

●会期中の休館日

10月:6日(月曜)、14日(火曜)、20日(月曜)、27日(月曜)
11月:4日(火曜)、10日(月曜)、17日(月曜)、25日(火曜)
12月:1日(月曜)、8日(月曜)、15日(月曜)、22日(月曜)
   28日(日曜)から31日(水曜)
1月:1日(木曜)から5日(月曜)

●章立て

プロローグ 万博の誕生と日本との出会い

 世界の物産を集め、産業振興を目的に、第1回万国博覧会は1851年にロンドンで開催されました。日本が初めて万博参加要請を受けたのは、1862年ロンドン万博でした。幕府は出品協力のみにとどまりましたが、幕府の外交担当者たちが万博会場を訪れています。
 1867年パリ万博開催にあたり、フランス政府は公使ロッシュを通じて熱心に日本の参加を求めました。万博の重要性を認識した外交担当者の提言を受けて、公式参加が決まります。そして、万博に派遣する高位の人物として、将軍徳川慶喜の弟昭武が選ばれました。昭武は将軍家の一員清水家を相続し、徳川姓と将軍になれる身分を与えられ、将軍名代として20名の使節団とともに日本を出発したのです。

はじまる  1867パリ

 日本の国際社会への本格的デビューとなった1867年パリ万博には、幕府のほか薩摩藩、佐賀藩、江戸商人が出品しました。巨大な仮設メイン会場・パレ内には日本館が、パレを囲む庭園「イギリス区画」には、薩摩藩の琉球パヴィリオン、江戸商人のパヴィリオン(茶屋)が建てられました。日本の「養蚕、漆器、手細工物ならびに紙」には最高位のメダルが授与され、国際的に高い評価を受けます。
 万博会場は、各国の皇族・王族が訪れる宮廷外交の舞台で、徳川昭武はその最前線に立ちました。昭武は各国巡歴の後、短い留学期間を経て、明治新政府の命令で帰国することになります。しかし、昭武や使節団の山高信離(のぶあきら)、佐賀藩の佐野常民など、明治時代の万博に関わる人々がこの万博に参加していたのです。

ふたたび  徳川昭武が見た万国博覧会 1876フィラデルフィア、1878パリ

 パリからの帰国後、水戸藩主・知藩事を経て、一華族となっていた徳川昭武は、フィラデルフィア万博御用掛に任じられました。彼は兄の土屋擧直(しげなお)とともに渡米し、翻訳や展示作業に従事しました。また、要人との面会や視察もおこなっています。開会式やアメリカ独立100周年記念式典に列席する以外にも、昭武はたびたび万博会場に足を運び、盛況ぶりや現地の流行を目撃したのです。
 フィラデルフィア万博終了後、昭武は再び4年半に及ぶ留学生活に入りました。パリを拠点に、ロンドンとも行き来しつつ、ヨーロッパ各地を旅行しました。この留学中、1878年パリ万博を個人で見学しています。昭武は万博副総裁の松方正義を出迎え、開会式にも出席し、その様子や日本の出品物の評判を書簡で書き送っています。

はばたく  山高信離(のぶあきら)と明治の万国博覧会

 幕府旗本で1867年使節団の一員であった山高信離(のぶあきら)は、廃藩置県後に明治政府の官僚に転身しました。彼は1873年ウィーン万博に関わりますが、彼を呼び寄せたのは佐賀藩出身の佐野常民でした。以後、山高はフィラデルフィア(1876)、パリ(1878)、シドニー(1879)、メルボルン(1880)、アムステルダム(1883)の各万博の事務官として活躍しました。佐野と山高は信頼関係で結ばれており、明治十四年の政変で佐野が失脚すると、山高が佐野の構想する博覧会・博物館政策を推進していくのです。1880年代、山高は博覧会・博物館という二つの美術行政の最高責任者であったのです。
 博覧会と博物館の担当官庁が分かれた後、山高は宮内省で博物館行政を担う立場となりますが、万博の出品物選考のたびに鑑査業務を命じられ、シカゴ(1893)、パリ(1900)に至るまで関与し続けたのです。

エピローグ 1867パリから、つづく

 徳川昭武は1881年6月の帰国後、二度と出国する機会はありませんでした。しかし、生涯を通じて1867年当時の教育責任者ヴィレット将軍らとフランス語で書簡のやりとりを続けました。また、澁澤榮一や、友人平山成信を通じて、海外との密接なネットワークを保ちます。澁澤の通訳を務めた林忠正は1900年パリ万博の日本事務官長、平山は同万博の評議員でした。昭武と万博のつながりは間接的ですが、続いたのです。
 万博は宮廷外交の舞台でもありました。はじまりは1867年パリ万博に派遣された将軍名代・徳川昭武からです。第二次世界大戦後には、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王・同妃喜久子が万博と深く関わるようになります。1958年ブリュッセル万博を訪問し、1967年には昭和天皇の名代としてモントリオール万博を公式訪問しました。
 2025年大阪万博においても、各国の王族・首脳が万博訪問後、皇居で会見・引見をおこないました。万博は今なお宮廷外交の舞台でもあるのです。

●入館料

戸定邸入館料

区分

個人

団体(20人以上)

一般150円120円
高校生・大学生100円80円

戸定歴史館入館料

区分

個人

団体(20人以上)

一般250円200円
高校生・大学生100円80円

戸定邸・戸定歴史館共通入館券

区分

個人

団体(20人以上)

一般320円250円
高校生・大学生160円120円

次の方は無料で入館できます

身体障害者手帳、療育手帳又は精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている人とその介護者1名
(手帳をご提示ください)
・中学生以下

各展覧会の内容

通常展 「暦と調度ー春から夏の戸定邸」

 戸定歴史館が所蔵する数千点の歴史資料のなかから、春から夏にかけての調度品を選んで展示します。展覧会が始まる3月下旬のサクラの開花シーズンから、風薫る5月下旬まで、戸定が丘の自然とあわせて季節を感じられる展覧会です。

会期

令和7年3月20日(木曜・祝日)から6月6日(金曜)

連携特別展 「まつど×とくがわ― 昭武・武定の生きた明治・大正・昭和」

 水戸徳川家11代当主の徳川昭武は、隠居後、松戸の戸定が丘に私邸(戸定邸)を建設し、明治17年(1884)に移り住みます。昭武・武定(昭武2男、松戸徳川家初代当主)をはじめとする戸定邸の人びとは、周辺地域と関わりながら、新しい環境での生活を営みました。
 本展では、戸定歴史館・松戸市立博物館の2館が連携し、それぞれの所蔵資料と視点で、戸定邸を取り巻く松戸市域の明治・大正・昭和を見つめ直します。小学生を中心に、子どもから大人まで「まつど」に親しんでいただける展覧会です。また、スタンプラリーや絵本の読み聞かせなどの関連イベントも予定しています。

会期

令和7年7月12日(土曜)から8月31日(日曜)

通常展 「万博・博 ―1867パリから、はじまる―」

 徳川昭武が日本の代表として参加した1867年パリ万国博覧会は、日本の国際デビューのきっかけとなりました。昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら万博経験者は、明治維新後の近代日本を牽引する役割を果たしました。今回の展覧会では、昭武と、彼の教育責任者としてパリ万博に随行し、後に美術・博覧会行政の中心となった山高信離の視点から、1867年から1900年までの10回におよぶ万博を紹介します。

会期

令和7年10月4日(土曜)から令和8年1月12日(月曜・祝日)

通常展 「季節の祝い― 雛から武者へ」【仮称】

 戸定歴史館には、雛道具の一部など、松戸徳川家ゆかりの調度品が所蔵されています。これらの調度品の多くは、日用品として使用され、あるいは季節の行事に合わせて飾り付けられました。本展では、会期中の上巳の節句や端午の節句にあわせ、松戸徳川家ゆかりの調度品類を展示します。

会期

令和8年2月14日(土曜)から5月10日(日曜)

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