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令和3年度特別展2「幕府再興とパリ万博ー1867・運命の転換点」終了しました

更新日:2021年11月2日

 1867年パリ万博に派遣された徳川昭武とその使節団の活動、国内外の情勢の変化をご紹介

会期:令和3年(2021年)7月3日(土曜)から10月31日(日曜)まで

展覧会概要

 令和3年大河ドラマの主人公・渋沢栄一は徳川昭武ゆかりの人物です。
 徳川昭武と渋沢栄一は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の命により1867年パリ万博へ派遣されました。幕府再興への布石であったはずのパリ万博参加、欧州での折衝中に、約260年保持してきた「政権を朝廷に帰し奉り」、江戸幕府は瓦解の日を迎えることになります。1867年が幕府の命運の転換点であったともいえるでしょう。
 本展では、パリ万博に際し日本国内外で徳川慶喜と徳川昭武はじめ使節団が展開した活動と、国内外情勢の変化について紹介します。また、大河ドラマ放送に合わせ渋沢栄一が果たした役割について再考します。

会期詳細 

前期:令和3年7月3日(土曜)から9月20日(祝日)  

後期:令和10月13日(水曜)から10月31日(日曜) 

※展示替え休館:9月21日(火曜)から10月12日(火曜) 

展示詳細

第1章 世界への船出ー使節団、欧州へ 

 1867年2月15日(慶応3年1月11日)、将軍名代である徳川昭武を筆頭に、使節団一行は、横浜港からヨーロッパへ向けて旅立ちました。昭武に随行したのは、向山一履や山高信離、渋沢栄一ら20名ほどで、幕臣や水戸家から比較的若い世代の人材が選ばれました。
 一行は、フランスの定期船に乗り、上海、香港、サイゴン(現在のホーチミン/ベトナム)、ゴール(スリランカ)、アデン(イエメン)などを経由し、建設中のスエズ運河や地中海を越え、横浜出航から約1か月半後の1867年4月3日(慶応3年2月29日)、フランス南部の貿易港・マルセイユへ到着しました。往路の船中で、昭武はフランス語の学習を始めています。渋沢は、後にこの旅程での食事など日々の記録を書き残しました。昭武一行は、いよいよ華の都・パリへ向かいます。

第2章 パリ万博―運命の転換点

 1867年4月11日(慶応3年3月7日)、昭武一行はパリに到着し、昭武は将軍名代として、フランス皇帝ナポレオン3世に国書を奉呈しました。ナポレオン3世は、自分の皇太子と年齢の近い昭武に親しく接し友好関係を深めますが、一方で、幕府が再興の一手として期待する日仏2か国間の協力体制はなかなか整いません。この時フランス政府は、メキシコ独立運動などに由来する経済的な停滞が始まっており、幕府に対して当初想定していた支援策が実現不可能になりつつありました。
 慶喜・昭武兄弟の悲願である幕府再興への道が停滞する中、渋沢はヨーロッパ滞在中、外貨両替の手続きや住居の手配を行うなど、実務面で西洋の金融・経済のシステムに触れ、経験を積んでいきます。

第3章 慶喜―決断 政権を朝廷ニ奉帰

 慶喜は将軍就任以前から、駐日フランス公使ロッシュの助言を受け、フランス政府との連携を強化し、幕府の軍事力増強に関する具体的な政策を検討していました。その他にも、欧米4か国の公使を大阪城へ招いて謁見し、本格的なフランス料理のフルコースやコーヒーを振舞うなど、日本が西洋と同等の文明国であるという姿勢表明を行いました。
 しかし、情勢は依然難しく、そこで慶喜は、事態打開の一手として「政権を朝廷ニ奉帰」、政権を期すことを決断します。これにより約260年続いた政治機関としての江戸幕府は終焉を迎え、将軍は各藩を統治する権限を失うことになりました。

第4章 昭武ー選択 迫る決断の時

 1867年12月、昭武は予定通り、パリで留学生活に入りました。フランス政府から派遣されたウィレット中佐が手配したフランス人の教師が付き、語学や歴史のほか、馬術、体操、絵画など、ヨーロッパ貴族階級の基本教養を中心に学びました。フランス皇太子との友情を育み、皇帝一家に優遇され、留学生活は順調にいくかに思えたのですが、1868年に入ると、政権奉帰(大政奉還)や鳥羽伏見の戦いの戦況など、日本の政変が昭武の耳にも届くようになります。慶喜からは留学を続けるようにと手紙が送られますが、幕府をめぐる情勢は非常に緊迫したものでした。
 昭武のフランス残留を恐れた明治新政府からは、帰国命令が出されます。留学続行か、帰国か。昭武自身の生命もかかった決断の時が迫っていました。

エピローグー新時代の光と影

 1868年7月4日(慶応4年5月15日)、パリの昭武のもとに、明治政府からの帰国命令が届きます。この時すでに、慶喜は江戸から退去して水戸で謹慎していました。昭武は兄や祖国を心配し、情報確認と協議を重ねたうえで翌7月5日(慶応4年5月16日)、帰国命令を受け入れます。渋沢はこの時、昭武の側近くでその決断を支えました。
 明治新政府の意向で、帰国後は水戸藩主を継ぐことになっていた昭武ですが、次期将軍の有力候補だった彼は、幕府を支持する勢力にとって幕府復活の切り札になりえます。昭武には厳しい警戒の目が向けられていました。
 

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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