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平成11年度以前

更新日:2013年11月25日

平成11年12月18日から平成12年2月20日まで

【通常展】戸定歴史館-通常展松戸徳川家の調度品

平成11年12月18日から平成12年2月20日まで

 松戸徳川家の本邸として使用されていた戸定邸は、延床面積725平方メートルの規模を誇り、邸内には23もの部屋が連なっています。戸定邸内の生活を彩っていた屏風、掛け軸、漆工品などの調度品を展示しています。

  • 物語図屏風 江戸後期 紙本著色 藤原広長筆

 源氏物語を描いたと思われる六曲一双(一つの屏風が六面から構成されているものが左右一対の二つで構成されていること)の屏風。竜頭鷁首(リュウトウゲキシュ;平安時代、貴人の乗った船。竜の頭と想像上の水鳥である鷁の首が彫刻されている)を池に浮かべ、優雅に管弦の楽を楽しむ様子が描かれている。
 この屏風は水戸徳川家に伝来し、松戸徳川家が分家するに際して、水戸家から贈られたもの。筆者の藤原広長は江戸後期の大和絵画家。上質な絵の具を使い、優れた技術によって、堅実に画面がまとめられている。写真は左隻(左側の屏風)部分。会期中に右隻への展示替えを行います。

  • 黒漆凰菱文手箱

 光沢が美しい漆黒の黒漆に金蒔絵が施された手箱。「伏見宮経子(1882年~1939年)遺品」とあるので、徳川昭武の兄で最後の将軍徳川慶喜の九女経子の形見分けの品として松戸徳川家に入ったことが分かる。

  • 桐鳳凰堆朱盆 有栖川宮幟仁(タカヒト)親王(1812年‐1886年)遺品

 堆朱(ツイシュ)とは朱漆を百回内外塗り重ね、その漆の層に山水・花鳥・人物などを彫り出したもの。写真のものには桐や鳳凰(ホウオウ;古来、中国で瑞鳥として尊ばれた想像上の鳥)が彫り出されている。
 この盆の持ち主であった有栖川宮幟仁親王は、有栖川威仁(タケヒト)親王の父。威仁親王は昭武、慶喜兄弟と交流が深く、その縁があって、この堆朱盆が松戸徳川家に入ったものと思われる。

平成11年10月2日から12月5日まで

【特別展】戸定歴史館 特別展幕末徳川の城

 江戸幕府の権力の中枢であり、最高機密の場所であった将軍の城の様相を古写真に探ります。

会期 平成11年10月2日から12月5日(日曜)まで
時間 9時30分から17時00分(入館は16時30分まで)
休館日 月曜日(10月11日は開館、10月12日は閉館)
入館料 一般300円(240円)、高・大学生200円(160円)、小・中学生100円(80円)
※()内は20人以上の団体料金

 右手の石垣上の二重櫓が江戸城本丸北西に位置する乾櫓。その左手下方の橋が北桔橋(きたつめはし)。この橋は江戸城天守台の真北に位置する。幕末の江戸城の姿を色濃く残している写真。
 この写真は松戸徳川家に伝来した東京の名所を撮影した写真アルバムに収められている。今回が初公開。

 大坂城本丸東側の諸櫓を斜め方向から写した写真。一番手前の櫓の中には家康ゆかりの馬印が収められ、大坂城を将軍に代わり管理する大坂城代は、赴任すると最初にこの櫓中の馬印の無事を確認したという。戊辰戦争中の混乱により、大坂城はほぼ全焼し、写真の櫓も焼け落ちてしまったが、櫓が焼け落ちる前の大坂城の雄姿をよく伝えている。展示されているのはオリジナルのガラス原板。保存のため、10月2日から11月はじめまでの期間のみ展示。

 15代将軍・徳川慶喜が撮影を命じたと推定される慶応3年冬の二条城本丸仮御殿。写真の部分は慶喜の居室部分を撮影したもの。江戸時代に幕府の城の御殿を写した唯一のものであるばかりでなく、将軍の居室まで写されているのには驚かされる。幕府の機密事項の中でも最高機密を写しているということになるからである。

展覧会概要

展示趣旨

 幕末にわが国に渡来した写真術という新しい記録媒体はさまざまなものごとを絵画や絵図では不可能な精密さで記録していった。肖像、名所旧跡、演出を加えられた当時の風俗などが印画紙の上に焼き付けられていった。
 これらの一般的な被写体に対して、極めて限られた数しか撮影されなかった特殊な被写体がある。当時の最高レベルの機密事項に属する城の内部の様子である。特に、将軍の城である幕府の城は、その最たるものであった。
 この展覧会では、長らく国内統治の拠点として機能してきた幕府の城が終末期を迎えた幕末に、新たなる記録メディアである写真によってどの様に記録されていたのかを探りたい。それらは写真によって捉えられた生きて機能している城の姿であり、幕末維新の大きな変革期における権力中枢の場の様相でもあるだろう。展示では、撮影の背景や必要性なども視野にいれつつ、終末期の幕府の城と黎明期の写真術の出会いによって残された写真の意味について考察してみたい。

主な展示品

 展示は幕府の城である江戸城、大坂城、二条城の幕末から明治初期までの写真を中心に構成される。それぞれの城の様相を古写真で再現しながら、全体像を把握してもらうために、幕末の城の平面図なども展示し、両者の資料特性の比較を試みたい。

1) 大坂城関係
  • 幕末大坂城湿板写真(大阪城天守閣蔵)
  • 大手門、太鼓櫓、蛸石、中之島より大坂城を望む、本丸東側諸櫓、人面石などオリジナルの湿板写真6点
  • 宮内庁書陵部所蔵の幕末大坂城湿板写真も複写写真として14点が展示されています。
2) 二条城関係
  • 本丸仮御殿、本丸天守代より西橋を望む、本丸より二の丸を望む、二の丸黒書院、二の丸大広間、二の丸庭園など13点(いずれも徳川慶朝氏所蔵)
  • 文久2年二条城二の丸御殿図面(元離宮二条城事務所所蔵)
3) 江戸城関係
  • 明治初期江戸城写真(徳川文武氏所蔵) (江戸城)東京桜田之景、(江戸城)東京江戸橋之遠景、(江戸城)東京二重橋之景、(江戸城)東京二重橋下馬先御門、(江戸城)東京小石川水戸橋、(江戸城)東京桜田之景、(江戸城)東京桜田御門など16点

 なお、その他に幕末の大坂城、二条城の果たした役割への理解の一助とするためイラストレイテッドロンドンニューズ大坂城関係部分などの関連資料も合わせて展示する。

平成11年7月17日から9月19日まで

【通常展】小中学生のための歴史展示’99 江戸に生まれ、明治に生きた殿様の生涯

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟、昭武(あきたけ)は、慶応3年(1867年)、パリ万国博覧会に参加した後パリに留学しましたが、明治維新により日本に帰国し、最後の水戸藩主となりました。藩や大名がなくなった明治17年、昭武は松戸に建てた戸定邸に住み、釣りや狩り、写真を楽しみました。

 この展覧会では、江戸時代に生まれ、明治という新しい時代を生きた昭武の生涯をわかりやすく紹介します。

昭武は10才の時から13才の時まで、生まれ故郷の水戸を離れ、300人の水戸藩士を率いて京都御所の警備に当たりました。幼いときから大名の子供に生まれた宿命を背負わなければならなかったのです。

 昭武は毎日習字などの勉強や武芸などの厳しい教育を受けました。

1867年パリ万博は壮大な規模で開催されました。中央の主展示場はおおよそ縦500メートル、横400メートルの規模を誇りました。

昭武(アキタケ)がパリ万博に派遣されたときの写真です。昭武は兄の将軍慶喜の代理として、幕府を代表してフランス皇帝ナポレオン三世に謁見(エッケン)しました。

フランス皇帝ナポレオン三世。初代ナポレオンの甥に当たり、1852年に皇帝となりました。

明治17年、戸定邸に移り住んだ昭武は写真などの多彩な趣味を楽しみました。写真は昭武が自分で現像をしている時の様子です。

昭武が使っていたガラス製のフィルムです(イギリス製)。

平成11年4月28日から7月6日まで

【通常展】1867年パリ万国博覧会徳川昭武の幕末滞欧日記

  • 戸定歴史館入り口懸垂幕
  • 徳川昭武等身大パネル

 昭武が1867年パリ万博に参加の時、パリで撮影された写真です。当時の昭武の身長を推定値に基づき等身大写真パネルで展示しています。

 昭武自筆のフランス語日記2冊。この他に、会場では昭武自筆の和文日記2冊や日本に居る慶喜からパリの昭武へあてて書かれた書簡など、パリ万博関係文書も展示されている。

  • 昭武所用の袴と陣笠

 手前がパリ万博に赴くときに昭武が着用していた袴。奥は同じく陣笠。三葉葵紋が金蒔絵で表されています。

  • 各国皇帝・国王肖像写真

 時の将軍・慶喜の実弟である昭武は、将軍の代理としてヨーロッパ各国の元首と華やかな宮廷外交を繰り広げました。写真手前からフランス皇帝ナポレオン3世、オランダ国王ウィレム3世、ベルギー国王レオポルド2世。

  • 昭武がナポレオン3世から渡された三葉葵紋入りの甲冑

 昭武はヨーロッパ各国を巡歴した。この騎兵用の甲冑には、ヘルメットの部分に三葉葵紋が表現されている。幕末の東西国際交流の様相を物語る資料である。

  • 三葉葵紋部分
  • 幻の徳川葵勲章

 国賓としての礼遇を受ける身分の昭武の渡欧により、幕府は勲章制度の不備が外交上の大きな障害になるという問題に直面した。勲章は相互交換が原則であり、勲章制度のない幕府は、国際外交の輪の中にとけ込むことが出来なかったのである。幕府は、大急ぎで勲章制度の整備に取り組んだ。

 しかし、明治維新によりこの勲章は完成することはなかったのである。この「幻の徳川葵勲章」は、当時の資料をもとにして、幕府が作ろうとしてた勲章を製作したものである。三葉葵紋に龍がからむ伝統的なモチーフによる勲章は、幕末の国際交流を物語っている。

関連情報

所蔵品一覧(昭武ゆかりの品)

平成11年1月23日から4月18日まで

【通常展】徳川家のくらし

展示風景

徳川家のくらし入り口
会場入り口

徳川家のくらし文箱

 濃梨子地扇面散蒔絵文箱(ノウナシジセンメンチラシマキエフバコ)。ふんだんに金粉を使用し、扇を散らした蒔絵の技法による文箱。文箱(フバコ)とは手紙などを入れておく手箱のこと。

 手前の屏風は「物語図屏風」(藤原広長筆)の内の右隻(ウセキ)部分。この屏風は水戸徳川家伝来の品で、戸定邸で使用されていた。左隻は今回の展示期間の後半に展示予定。

 展示会場では、徳川家の暮らしと共に、1867年パリ万博関係資料も一部展示されている。写真は、昭武がパリから帰国するに際して持ち帰ったもの。日本へもたらされた本格的な西洋彫刻としても、ごく初期のものに属するだろう。

平成10年7月1日から9月27日まで

【通常展】徳川慶喜と写真

 本展では、幕末の慶喜の肖像写真、慶喜が撮影を命じた将軍の城・二条城の内部の写真、明治になり慶喜自らが撮影した写真合計約60点により、最後の将軍の視線に迫ります。

 8月11日からは茨城県立歴史館の特別出品による、新発見の幕末の慶喜の肖像写真など11点、つい先ほど発見された慶喜筆の油絵が展示されます(写真のみ作品保護のため、9月8日から一部展示替えを行います)。

会期: 平成10年9月27日(日曜)まで
会場: 松戸市戸定歴史館 展示室
入館料: 一般60(50)円、高・大学生40(30)円、小・中学生20(15)円
  *( )内は20名以上の団体
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌日)

平成10年4月28日から6月21日まで

【特別展】最後の将軍 徳川慶喜使者の間・従者の間復原工事完成記念

会期:平成10年4月28日(火曜)から6月21日(日曜)まで

会場: 戸定歴史館展示室
主催: 松戸市・松戸市教育委員会
入館料: 一般300(団体250)円
大学高校生200(団体150)円
小中学生100(団体80)円
入館時間: 午前9時30分~午後5時(但し午後4時30分入館締切)
休館日: 月曜日

徳川慶喜の未公開資料を特別展示

 嘉永6年(1853年)7月8日の米国ペリー提督来航に端を発した日本の開国は幕藩体制の動揺と政局の混迷をもたらしました。その中で一躍脚光を浴びた人物が徳川慶喜です。慶喜は天保8年(1837年)、徳川御三家のひとつ水戸徳川家に生まれ弘化4年(1847年)、御三卿のひとつ一橋徳川家を相続しました。その後、慶喜は将軍後見職、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮をへて慶応2年(1866年)12月5日、15代将軍に就任しました。

 将軍となった慶喜は精力的に幕政改革を推し進めましたが、時すでに遅く幕府の権威は失墜し絶対君主である将軍の権力をもってしても体制を維持することは困難でした。そこで慶喜は幕府の存続より日本という国家を存続させるため政権を朝廷に一旦返上するという大政奉還を断行し政界再編を図りました。しかし反幕勢力の巻き返しにより慶喜は王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いで政治的軍事的敗北をきっし江戸に戻り謹慎の日々を送りましたが、江戸開城により水戸、そして静岡に居を移し歴史の表舞台から去ったのです。

 維新後の慶喜は写真、製陶、釣、狩猟、囲碁等の趣味の世界に没頭して暮していましたが、徐々に名誉を回復していきました。そして慶喜は明治30年(1897年)11月19日、東京巣鴨に居を移し翌年3月2日、明治天皇・皇后に謁見しました。さらに同35年(1902年)6月3日、慶喜は公爵を受爵して新たに一家を成すことを許され名実ともにその名誉を回復し、大正2年(1913年)11月22日、77年の波乱の人生を閉じました。

 このたび松戸市戸定歴史館では明治維新130年周年、ならびに戸定邸使者の間復原事業の完了にあわせて徳川慶喜家、松戸徳川家の全面的ご協力のもと特別展「最後の将軍徳川慶喜」を開催します。この展覧会では慶喜の本邦初公開資料や遺品の数々を展示し、その知られざる維新後の生活を浮き彫りにしようとするものです。

特別展展示風景

特別展示風景

 展示室奥の様子。左側手前の覗きケースは維新後の慶喜の住まいの平面図。左奥は、慶喜肖像、慶喜自筆日記。突き当たりには、慶喜が死亡時にもらった勲章(勲一等旭日桐花大綬章)など。右側のケース内には慶喜の写真撮影記録や使ったカメラを展示。

特別展示風景

 ケース壁面には慶喜肖像、彼に授けられた勲記(勲章を授ける旨を記す文書)、ケース床面には慶喜自筆日記(明治31年からのもの)、家扶日記(慶喜の使用人の業務記録)、右端には慶喜の伝記である『徳川慶喜公伝』および木箱入りのその校正刷りが展示されている。

平成9年12月6日から平成10年4月12日まで

【通常展】徳川昭武・慶喜兄弟と松戸

 左側の写真は、徳川慶喜が明治二十六年から明治三十年にかけて撮影した静岡の写真です。白黒写真の上に絵の具で着色が施されています。正面の写真は、昭武が明治四十年頃撮影した松戸の写真です。

 壁面ケース内の様子。慶喜の父、斉昭の書、慶喜自身の書、慶喜撮影の明治の戸定邸客間の様子などを展示しています。

 昭武が将軍慶喜の名代(みょうだい)として派遣された、一八六七年パリ万博の様子を展示するコーナー。パリ万博会場の写真の前に、昭武が持ち帰った双眼鏡、晴雨計、昭武がかぶっていた陣笠、同じく着用の陣羽織などを展示しています。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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