最後の将軍徳川慶喜
更新日:2013年11月25日
<解説>松戸市戸定歴史館学芸員 斉藤洋一
終生に渡り、兄慶喜と深い心の交流を持った徳川昭武の生涯は、慶喜の存在を抜きにしては語れません。これまでの慶喜に対する語り口は、幕府政治に終止符を打った人物ということに終始している観があります。
しかし、彼には改革者としての見過ごせない一面があります。対外情勢の変化に対応すべく、フランスとの連携を深め、時と競うようにして幕府の抜本的な大改革を押し進めていたのです。
昭武のパリ万博派遣も、慶喜の 遠大なる政局運営の一翼を担っていました。ここでは、志半ばで政治の表舞台から去った慶喜について、紹介することにしましょう。
水戸徳川家に生まれて
徳川慶喜は天保八年(一八三七年)九月、今は東京ドームが建つ場所にあった水戸藩上屋敷で生まれました。父は昭武と同じ水戸藩九代藩主斉昭、母は斉昭の正室有栖川宮吉子女王。慶喜は斉昭の七男、昭武は十八男になります。
慶喜は、幼少の頃から聡明さを謳われ、水戸で厳しく養育されました。
十二代将軍家慶からも期待を受けていた彼は、十一才の時に一橋徳川家に養子に入ります。一橋家は将軍家の家族の扱いを受ける存在で、当時、将軍の座に最も近い家柄のひとつになっていました。
彼は将軍の有力候補の一人になります。 嘉永六年(一八五三年)、ペリーの黒船来航により、わが国が大きく揺れ動き、確固たる方針を幕府が打ち出せない中、十三代将軍家定は亡くなります(一八五八年)。
子供のいなかった家定の次の将軍を誰にすべきか。紀州藩主慶福(後の家茂)を推す将軍の血筋を尊重する一派と慶喜を推す将軍の政治的能力を重視する一派が激しく対立しました。 結局 、十四代将軍は家茂になりますが、この政治的対立は慶喜を推していた人々への弾圧をもたらし、その余波で、慶喜も隠居謹慎を命じられることになります。
数えで二三才の時でした。再び中央政局へのただ中へ約三年の空白の期間を経て、再び彼が、中央政局に登場するようになるのは、一八六二年のことです。
政局に対する発言力を強めていた朝廷の意向を受けて、彼は将軍後見職に就任します。この時期の中央政局の舞台は、江戸から京都へと移っていました。 朝廷の意向が政局へ の決定的な影響力を持つようになっていたからです。幕末の政局は幕府と朝廷、そして雄藩(薩摩・長州・会津・越前など)やフランス、イギリスなどの外国勢力との間のパワーバランスの変化に対応して、複雑な軌跡を描きます。
政治家としての慶喜は、幕府と朝廷との板挟みに会いながら、京都を舞台にして苦闘を続けることになるのです。
改革者としての徳川慶喜
元治元年(一八六四年)政治閉塞状況の中、 慶喜は将軍後見職を辞任し、天皇から任命された禁裏御守衛総督に就任します。この役職は、その名が示すとおりの京都御所の警備総責任者ということに止まらず、将軍と同格以上の政治的影響力を行使しうる重要 なポストでした。
昭武が上京し、慶喜と共に働くのもこの時期に当たります。 慶応二年(一八六六年)、一四代将軍家茂が亡くなり、慶喜は一五代将軍に就任します。幕府という組織の頂点に立ったことで、彼は、初めて自らの意志により、幕政の大改革に取り組むことが可能になりました。
薩摩、長州の倒幕勢力が台頭する中、時と競うようにして、慶喜は幕府の根本的軍政改革、機構改革を押し進めます。
外交面でも、将軍自らがフランス料理を振る舞い、各国公使との交流に取り組むなど、 彼は伝統的な将軍のあり方を打破した活躍を見せるのです。その姿は、倒幕側からも、家康の再来を見るようだとまで評されました。
しかし、衰退する幕府を支えることは、彼の能力をもってしてもいかんともしがたく、慶応三年(一八六七年)一〇月の大政奉還、一二月の王政復古の クーデター、翌年正月の鳥羽伏見の戦いでの敗戦を経て、幕府の政治は終焉を迎えることになるのです。
『錦絵・教導立志伝(徳川慶喜)』 小林清親画
維新後の慶喜
維新後、慶喜は大正二年まで生きます。政治的な事柄との関わりを極力避け、新しい政治体制の中に、徳川家をいかに軟着陸させるかが彼のテーマであったかに見えます。
三十年間の静岡隠棲生活を終え、明治三十年、彼は東京へ移住します。翌三一年には、維新後初めて明治天皇と謁見、明治三五年には公爵の爵位を授けられました。
東京時代の 慶喜は、維新直後の朝敵という評価から一転して、明治維新最大の功労者として位置づけられました。
『葵紋付単衣』 徳川慶喜所用
ごく親しい身内として交流を欠かさなかった慶喜と昭武ですが、東京に出てきてからの慶喜は、狩猟、写真撮影、魚釣り、製陶などのために、松戸の戸定邸を頻繁に訪問 しました。 昭武と同じく、写真を趣味としていた慶喜は、戸定邸を初めとする松戸の光景を撮影しています。これらの写真も、昭武のそれと共に、大切な松戸の記憶となったのです。
その一 徳川昭武の生きた時代
一八五三年、浦賀にペリーの乗る黒船が来航し、開国を要求します。二百年以上にわたり外国との交際を拒絶する鎖国を続けていたわが国は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。巨大な船体に、大砲を装備した圧倒的な軍事力の前に、当時の幕府は対抗するすべを持たなかったからです。
これから、明治維新までの十五年間、外からの圧力を契機として国際化、近代化をめぐる激動の時代が始まります。
徳川昭武は、ちょうどこの年に生まれました。父は水戸藩九代藩主徳川斉昭(なりあき)、十六歳年上の兄には後に最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)がいました。大名家、それも徳川御三家の一つである水戸徳川家に生まれた昭武は、幼い時から中央政局の渦の中に巻き込まれていくことになります。
一八六四年、昭武が数え年で十二歳の時、彼は京都へと上京します。三百人の水戸藩兵を率い、京都御所を警備するためでした。当時の政治の中心は、江戸から朝廷のある京都へと移っていました。もちろん、まだ少年に過ぎない昭武に難しい政局の判断などできるはずもありません。しかし、自らの意志とは無関係に、御三家の子どもとしての役割を、昭武は果たさなければならなかったのです。
その二 一八六七年パリ万博
一八六七年、フランスのパリで万国博覧会が開かれることになりました。世界各国から膨大な出品物を集めて開かれた世紀の大イベントに、我が国も初めて参加をすることになりました。フランスの皇帝ナポレオン三世は日本の将軍にもパリ訪問を要請しましたが、混迷の度を加える複雑なわが国の政局の中では、長期間将軍が日本を留守にすることは不可能でした。
そこで慶喜は、弟昭武を将軍の代わりに派遣することにしました。この時十四歳の少年昭武は、日本を代表する将軍の名代としてパリへと旅立つことになったのです。さらに、慶喜は昭武に対し、万博終了後、パリでの長期留学も命じていました。自分の後継者にと昭武のことを見込んでいた慶喜は、昭武が次代の指導者としてふさわしい最新の知識をパリで身に付けてくることを期待していたのです。
『昭武がパリ万博のために渡欧するに際して着用した、緋羅紗地三葉葵紋陣羽織』
このときの万博には、わが国からもたくさんの品物が送られました。そこには、ありとあらゆる日本の産物をパリで紹介しようという意図がうかがわれます。当時のヨーロッパから見れば、遠い極東の島国である日本のことはほとんど知られていませんでした。多数の入場者を迎えたこの博覧会場で、わが国は、初めて国際社会にデビューしたとも言えるでしょう。この万博は、後に本格的に勃興するヨーロッパでの日本愛好熱「ジャポニスム」の大きな契機となるのです。また、昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら、当時最高の知的エリートたちからなる使節団の人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになるのです。
昭武は、各国の国王・皇帝らと交わり、遠く日本を離れたパリでの国際交流の最前線に身を置きます。万博の主要行事終了後には、さらにヨーロッパ各国を歴訪、国際交流の先駆者としての役割を果たすのです。
その三 幻の将軍
昭武のヨーロッパ訪問は、当地でどのように受け止められたのでしょうか。イギリスの絵入り新聞で昭武は、「プリンス・トクガワ」として大きく紹介されています。
記事は次のようなものでした。
昭武は将軍慶喜の弟にあたり、将軍の寵愛も深い。現将軍には子どもがなく、昭武は日本独特のシステムの中で、将軍を出し得る家の一つである清水徳川家の当主でもあるので、次期将軍となる請求権をかなり持っている(大意)。
記事中で、「王子」という意味の「プリンス」という言葉を選んでいるのも、昭武が次期将軍の有力候補であるとの認識を物語るものでしょう。
では、慶喜の意図はどうだったのでしょうか。慶喜が会津藩主に語った内容を記録したものによると、慶喜は徳川一門の中で、自分の後継者たり得るのは昭武しかいないと語っています。そのためにも、会津松平家への養子入りが決まっていた昭武を、将軍を出し得る家、清水徳川家へとなかば強引に養子入りさせた上で、パリへと送り出したのでした。
しかし、一八六八年、昭武の運命は大きく変化することになります。兄の期待にこたえるべく、パリでの留学生活を送っていた昭武に、幕府崩壊の知らせが届くのです。さらに、前将軍の弟がフランスにいることによる不測の事態を恐れた新政府からは、矢のような帰国の催促が舞い込みます。乏しい情報の中、留学を続けるか帰国か、昭武は難しい判断を迫られます。最終的に帰国を決断した昭武は、帰国後、最後の水戸藩主に就任することになります。昭武が十六歳の時のことでした。
その四 昭武と戸定邸
昭武の日記によると、彼は明治八年(一八七五年)正月、狩猟のため松戸を訪れています。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられます。以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになりました。明治十六年(一八八三年)、水戸徳川家の当主の座を甥に譲り、隠居を決意した昭武は、松戸の戸定の地に邸宅の建設を始めます。翌明治十七年(一八八四年)に完成した現在の戸定邸です。
眼下に江戸川、遠くに富士を望む小高い岡の上に建つ戸定邸は、今や明治期の旧大名家の和様の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものです。意図的に装飾を廃し、最高級の杉の柾目材がふんだんに使われた戸定邸は、質実剛健の水戸徳川家の遺風を今に伝えています。客間の前には、起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配した和洋折衷式の庭園が広がっています。
部屋数が二十以上もあり、迷路のように廊下が伸びる戸定邸ですが、生活空間としては、当時の言葉でいうところの「表」と「奥」に明確に区分されていました。表とは、来客者用のスペース、奥は家族と使用人のためのスペースです。多数の部屋が連なる邸宅は、旧大名家の生活様式を反映したものだったのです。
戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われました。
その五 明治の松戸の記録者
戸定邸建設後も、昭武は明治天皇のそば近くに仕える麝香間伺候という公職についていたため、定期的に皇居へ行かなければなりませんでした。その時は都内の水戸徳川家本邸を使用し、アウトドアライフを楽しむときには戸定邸を使っていたのです。
狩猟、自転車、魚釣り、焼き物など多彩な趣味の持ち主であった昭武は、戸定邸での生活を存分に楽しんだことでしょう。中でも松戸にとって大切なものとなっているのは、昭武が撮影した明治時代の松戸の写真の数々です。
昭武は明治三十六年から本格的に写真撮影に取り組むようになります。撮影枚数は、およそ千五百枚以上にも及びました。まだカメラが高価なもので、技術的にも撮影が難しかった当時、写真撮影を楽しむことができたのは、昭武のような旧大名家や富豪層などのごく一部の人々に限られていました。
昭武が小さな印画紙に記録してくれたのは、豊かな自然と巧みに共生する人々の姿であり、着ているものは質素でも、生命の躍動にあふれる子供たちの姿でした。それは、私たちが忘れかけている松戸の原風景といっていいでしょう。詳細な文字による撮影記録と共に、これらは忘れがたい松戸の記憶となったのです。