企画展「プリンセス・トクガワー徳川家ゆかりの女性たち」 終了しました
更新日:2021年1月11日
1867年、13歳で渡欧した徳川昭武は、現地報道で「プリンス・トクガワ」と紹介されました。帰国後、将軍の後継者とみなされていた高い地位を失いますが、生涯を通じて華美を好まず、日常を愛する趣味人の気質が有ったようです。一方、環境が激変する中で、昭武の家族をはじめとした徳川家の女性たちはどのような暮らしをしていたのでしょうか。
幕末から明治にかけての徳川家の女性たちに注目し、初公開となる寄贈資料のほか収蔵資料を中心に、彼女たちの暮らしを彩った華やかな婚礼調度などの品々を展示します。
展覧会詳細 (新収蔵資料も公開します)
会期
令和2年10月17日(土曜)から令和3年1月11日(月曜・休日)まで
展覧会構成
第1章:江戸城大奥と水戸藩の奥-近世と近代をつなぐ女性たち
幕末の水戸徳川家には、9代齊昭夫人・吉子女王や10代慶篤夫人經子をはじめ、生母や娘たち、側室など、多くの女性たちが暮らしていました。奥を取り仕切る立場にあった吉子女王や經子は、年中行事などを通じて、江戸城大奥との贈答や交際を続けました。
第2章:葵の姫―徳川家で生まれ、嫁いだ女性たち
水戸徳川家では、幕末から明治時代中期まで、9代齊昭夫人吉子女王が大きな影響力を持ち、姫たちの命名や教育に深く関わっていました。学校制度が始まると、姫たちは学校に通い、学ぶようになりますが、成長儀礼や風習などは江戸時代を色濃く残していました。
1902年に誕生した徳川慶喜家では、江戸時代の要素はあまり見られませんが、書や絵画などを教養として学ぶ伝統は続いていたようです。
第3章:葵の夫人―徳川家に嫁いだ女性たち
水戸徳川家では、昭武生母秋庭が古典や雅楽に親しみ、写本を残すなど、高い教養で知られていました。11代昭武夫人盛子は幼少期に婚約者として徳川家に入り、将来の奥方としての教育を受けつつ、学習院でも学んでいました。
徳川慶喜家では、2代慶久夫人實枝子が有栖川宮家最後の王女であったため、宮家が伝える書道「有栖川御流」が受け継がれました。實枝子が残した多くの書道手本は、彼女の死後嫁いだ3代慶光夫人和子が引き継ぎました。
第4章:華麗なる調度
女性たちは、多くの婚礼調度や雛道具とともに徳川家に嫁ぎました。しかし、第二次世界大戦や華族制度の廃止で、現在所在を確認できるのはごく一部に限られます。また、箱などが失われ、もとの持ち主がわからなくなった品も少なくありません。現代まで伝わった水戸/松戸徳川家伝来品と、有栖川宮家から徳川慶喜家に嫁いだ實枝子女王の婚礼調度の一部を、かつての様子を写した古写真とともにお楽しみください。
エピローグ:生家と婚家―それぞれへの思い
徳川昭武は、父齊昭の思想を伝える農人形を多く制作し、茨城の関係者に配布しました。その由緒書を記したのは、母秋庭です。彼女は夫齊昭の著作の写本も残しており、夫や息子の思想を世に広く伝える役割を果たしたのです。