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徳川慶喜・昭武関係年表 一

更新日:2015年9月17日

1837年(天保8年)9月29日~1869年(明治2年)9月28日

西暦 元号 月日 年齢 慶喜関係記事 年齢 昭武関係記事
1837年 天保8年 9月29日 1 水戸藩九代藩主斉昭の七男として江戸小石川水戸藩上屋敷に生まれる、母は有栖川吉子、幼名七郎麿、昭致    
1838年 天保9年 4月28日 2 水戸に行き、水戸で養育される    
1847年 弘化4年 9月1日 11 一橋家の養子になり、家督を相続する    
1848年 弘化4年 12月1日 11 元服し、名を慶喜と改める。    
1848年 嘉永元年 12月4日 12 一条忠香の娘千代と婚約    
1848年 嘉永元年 - 12 (徳川斉昭)家臣菊池忠を長崎に派遣し、写真術を研究させたという説がある*3    
1849年 嘉永2年 5月6日 13 (島津斉彬)印影鏡について徳川斉昭に書簡を送る*3    
1849年 嘉永2年 6月7日 13 (島津斉彬)同じく印影鏡について徳川斉昭に書簡を送る*3    
1850年 嘉永3年 7月27日 14 (島津斉彬)印影鏡訳術に関する書簡を徳川斉昭に送る*3    
1853年 嘉永6年 2月6日 17 千代との婚約を破棄、五月一条忠香の養女美賀子と婚約    
1853年 嘉永6年 9月24日     1 斉昭の十八男として江戸駒込の水戸藩中屋敷に生まれる、母万里小路睦子、幼名余八麿昭徳、字子明、号鑾山
1854年 安政1年 - 18 (徳川斉昭)藩士菊池冨太郎を長崎へ留学させ、写真術を研究させたと伝えられる*3    
1856年 安政2年 12月3日 20 美賀子と結婚、参議に任じられる    
1857年 安政4年 3月24日 21 幕府秘蔵のライフル銃を借り受け拝見する(『新稿一橋徳川家記』)    
1859年 安政6年 8月27日 23 幕府より隠居謹慎を命じられる。    
1860年 万延元年 6月29日 24 (徳川斉昭)水戸城中にて急死、烈公と諡される    
1860年 万延元年 - 24 アメリカ人写真師某、遣米使節随行員を撮影しガラス写真七十枚と覗目鏡を贈る、後、これらを徳川慶喜に献上    
1862年 文久2年 7月6日 26 一橋家再相続を命じられ、将軍後見職に就く    
1862年 文久2年 - 26 (亀谷徳次郎)京都に上り、御所写真師となる、ついで、知恩院内に写真業を開く*3    
1863年 文久3年 1月10日 27 御所に参内し、始めて孝明天皇に謁見する    
1864年 文久3年 12月21日 27 京都小浜藩邸(若州屋敷)を宿所とする(慶応3年9月21日まで)    
1864年 文久3年 12月30日 27 朝廷より参豫を命じられる    
1864年 文久4年 1月11日     12 禁裏守衛のため江戸出発、百余人を伴う
1864年 文久4年 1月28日     12 京都に着く、本圀寺勢は約三百名となる
1864年 元治元年 3月25日 28 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を命ぜられる    
1864年 元治元年 3月9日 28 参豫を辞す    
1864年 元治元年 4月14日     12 徳川慶勝に、昭武を松平容保の嗣子にする仲介をさせる。
1864年 元治元年 5月9日 28 摂海巡視のため大阪に下る    
1864年 元治元年 5月20日 28 帰京    
1864年 元治元年 7月10日     12 紀州・松山両藩兵とともに禁裏南門守備の任につく
1864年 元治元年 7月19日 28 禁門の変で諸藩を指揮 12 禁門の変に際して一橋家床几隊と供に日華門を守備
1864年 元治元年 8月5日     12 本圀寺瑞雲院へ移る
1864年 元治元年 11月19日     12 従五位下侍従に叙任される、28日、民部大輔を兼任
1864年 元治元年 12月3日 28 天狗党討伐のため京を出発、近江へ向かう、12月26日帰京    
1865年 元治元年 12月4日     12 天狗党討伐のため本圀寺を出発
1865年 元治2年 1月3日     13 本圀寺に凱旋
1865年 元治2年 1月7日     13 慶喜の若州屋敷に年賀に赴く
1865年 元治2年 1月23日     13 天狗党追討の功に対し、朝廷より賞詞を賜わる*4
1865年 慶応元年 4月7日 29 慶応と改元    
1866年 慶応元年 12月7日     14 朝廷より千両賜わる沙汰ある*4も、辞退
1865年 慶応元年 - 29 (内田九一)大阪天満に写真業を開く、また、大阪城内兵士の西洋式調練、大阪の風景・風俗を撮影する*3    
1865年 慶応元年 - 29 京都町奉行大久保主膳家臣某(内田九一ともいう)、「二条城歩兵調練之図」(四枚続き)、「慶喜公御滞在京都御旅館(本願寺)之図」などを撮影する*3    
1866年 慶応2年 1月4日     14 従五位民部大輔の資格で参内、始めて孝明天皇に拝謁*4
1866年 慶応2年 3月6日     14 大坂城へ将軍家茂の御機嫌伺いに行く
1866年 慶応2年 3月10日     14 京都の一橋邸内にて写真撮影
1866年 慶応2年 7月20日     14 将軍家茂没、昭徳院と諡されたため昭徳は昭武と改名
1866年 慶応2年 7月29日 30 将軍に代わり征長に赴くべしとの勅許が下る    
1866年 慶応2年 7月31日 30 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を辞す    
1866年 慶応2年 8月1日     14 参内後、一橋邸で慶喜と対面する
1866年 慶応2年 8月8日 30 長州出陣につき御暇参内、8月11日俄かに出陣を中止    
1866年 慶応2年 8月9日 30 一橋家徳川家、二条堀川東入町横山榮五郎定職人阿部寿八郎を写真師として抱え入れる。(『新稿一橋徳川家記』)    
1866年 慶応2年 8月16日 30 兵を解き諸大名を召集の上今後の方針を決める事を奏請、8月21日休戦の勅命が下る    
1866年 慶応2年 8月20日 30 徳川宗家を相続、軍制改革などに着手    
1866年 慶応2年 11月14日     14 昭武を使節としてフランスに派遣し、かつ五年間留学させることを決める
1867年 慶応2年 11月28日     14 水戸家家老へ徳川昭武のフランス派遣申渡し,また清水家相続を命ぜられる、以後徳川を称す*4
1867年 慶応2年 12月3日     14 幕府、昭武を、慶喜の営内に住ませる
1867年 慶応2年 12月5日 30 征夷大将軍に任じられる    
1867年 慶応2年 12月9日     14 京都警護の功により、従四位下左近衛権少将に叙任*4
1867年 慶応3年 1月3日     15 京都出発、兵庫から長鯨丸で横浜へ向けて出帆
1867年 慶応3年 1月11日     15 横浜をフランス郵船アルフェ-号で出港*6
1867年 慶応3年 1月23日 31 長州征討軍を解く    
1867年 慶応3年 2月29日     15 マルセイユへ到着*6
1867年 慶応3年 3月1日     15 昭武一行記念写真撮影*6
1867年 慶応3年 3月6日     15 マルセイユ出発、リヨンで一泊*6
1867年 慶応3年 3月7日     15 パリ到着、カピュシン街のグランオテルに投宿
1867年 慶応3年 3月17日     15 レセップス邸で琉球王国使節を自称する薩摩藩側と幕府と対立、翌日フランス各紙に幕府の国家主権を疑問視する記事掲載される
1867年 慶応3年 3月24日     15 テュイルリー宮殿で皇帝ナポレオン三世に謁見、国書提出*6
1867年 慶応3年 3月26日     15 博覧会会場で各国の産物を見る、皇帝より贈物届く*6
1867年 慶応3年 3月28日 31 英蘭仏各国公使と大阪城で公式謁見、同日、イギリス人サットン、慶喜を写真撮影する    
1867年 慶応3年 3月29日 31 イギリス公使、大坂城で慶喜と会見、同日サットン、慶喜を写真撮影する    
1867年 慶応3年 4月4日     15 パノラマを見物
1867年 慶応3年 5月7日     15 ナポレポン三世の招待を受けロシア皇帝、プロシャ国王とともにベルサイユ宮殿へ行く、夕方帰る*6
1867年 慶応3年 5月11日     15 ホテルを出てペルゴレーズ街のロシア人貴族の屋敷を借りる
1867年 慶応3年 5月14日 31 松平春嶽、山内容堂、島津久光、伊達宗城らと二条城で四侯会議を開く、同日、慶喜、写真師横田彦兵衛に命じて、この四人の肖像写真を撮影させる*3 15 フランスの教育省へ徳川昭武のための教師派遣を申請
1867年 慶応3年 5月23日 31 参内、兵庫開港・長州処分寛大の勅許を求める、夜を徹しての議論の末、翌24日、勅許される    
1867年 慶応3年 5月29日     15 産業館で万博出品物にたいする賞牌授与式に参列*6
1867年 慶応3年 6月2日     15 博覧会を一覧、グランプリ牌を受取る*6
1867年 慶応3年 6月21日     15 ポルトガル王妃を訪問し、テュイルリー宮殿でナポレオン三世に面会
1867年 慶応3年 6月29日 31 幕府、国内事務総裁・会計総裁・外国事務総裁(各新設)陸軍総裁・海軍総裁を任命、老中月番の制を廃止    
1867年 慶応3年 7月11日 31 (西暦8・10)サットン撮影の写真を基にした慶喜の肖像(版画)がイラストレイテッドロンドンニュースに掲載される、慶喜は新しい将軍として紹介される    
1867年 慶応3年 8月6日     15 スイスへ向けてパリを出発、スイスのバ-ゼル着*6
1867年 慶応3年 8月8日     15 スイス大統領に謁見*6
1867年 慶応3年 8月16日     15 ベルンを出発、オランダへ向かう*6
1867年 慶応3年 8月20日     15 国王ウィレム三世に謁見
1867年 慶応3年 8月27日     15 ベルギ-のブリュッセル着*6
1867年 慶応3年 8月28日     15 国王レオポ-ル二世に謁見
1867年 慶応3年 9月2日     15 写真撮影、市内遊覧、夜 観劇
1867年 慶応3年 9月6日     15 国王よりテルヴュ-レンでの狩猟に招待される
1867年 慶応3年 9月12日     15 パリへ戻る*6
1867年 慶応3年 9月20日     15 イタリアへ向け出発
1867年 慶応3年 9月21日 31 二条城に移る    
1867年 慶応3年 9月24日     15 フィレンツェ着、駅よりホテルまで歓迎式典
1867年 慶応3年 9月27日     15 イタリア国王に面会、夜、観劇
1867年 慶応3年 10月2日     15 ミラノでイタリア王子に面会
1867年 慶応3年 10月3日 31 山内容堂、政権奉還の建議書を提出 15 フレンツェ着*6
1867年 慶応3年 10月8日     15 イギリス艦に乗船しマルタ島ヴァレッタ港へ向かう*6
1867年 慶応3年 10月11日     15 ヴァレッタ港着、軍事施設見学
1867年 慶応3年 10月14日 31 大政奉還    
1867年 慶応3年 10月24日 31 将軍職を辞す。 15 パリ着*6
1867年 慶応3年 11月6日     15 イギリスへ向け出発、7日、ロンドン着*6
1867年 慶応3年 11月7日     15 ド-ヴァ-海峡横断、ロンドン着
1867年 慶応3年 11月9日     15 汽車でウィンザ-宮殿へ、ヴィクトリア女王に謁見
1867年 慶応3年 11月22日     15 ド-ヴァ-港を出発、カレ-を経てパリへ戻る*6
1867年 慶応3年 11月23日     15 留学に専念始める、乗馬を日課とする
1867年 慶応3年 11月25日     15 乗馬用の馬を購入、洋服を着始める
1867年 慶応3年 11月26日     15 (西暦12・21)イラストレイテッドロンドンニュースに将軍の後継者になるに違いないと報道される
1867年 慶応3年 12月6日     15 ベルギー国王より贈物の二連銃届く
1868年 慶応3年 12月7日     16 テュルリ-宮殿で皇帝ナポレオン三世に年賀の挨拶、将軍と昭武の写真を贈る
1868年 慶応3年 12月8日     16 洋服姿で愛犬リヨンとともに写真撮影
1868年 慶応3年 12月9日 31 王政復古の大号令 16 フランス皇太子、皇帝の代理で年賀の返礼に昭武を訪問
1868年 慶応3年 12月12日 31 二条城を出て大阪に下る    
1867年 慶応3年 - 32 (田中光顕)父へ慶喜らの写真を送る*3    
1867年 慶応3年 - 32 横浜二四番館のビアト、『万国新聞紙』に大君の写真を一分二朱で販売する旨の広告を出す*3    
1867年 慶応3年 - 32 ナポレオン三世より鏡玉を贈られ、後これを船橋鍬次郎に与える*3    
1868年 慶応4年 1月2日     16 日本から大政奉還の御用状が届く
1868年 慶応4年 1月3日 32 鳥羽伏見の戦始まる    
1868年 慶応4年 1月4日     16 スイスより時計届く
1868年 慶応4年 1月6日 32 敗報を聞き、大阪城を脱出して海路江戸に向かう    
1868年 慶応4年 1月7日 32 慶喜追討の勅命下る    
1868年 慶応4年 2月12日 32 江戸城を出て上野寛永寺に移り謹慎    
1868年 慶応4年 2月14日     16 画学教師としてのジェームス・ティソと対面
1868年 慶応4年 2月15日     16 この日よりジェームス・ティソに絵を教わる*6
1868年 慶応4年 3月1日     16 飼犬リヨンをシ-ボルトへ差し遣わす
1868年 慶応4年 3月17日     16 日本より御用状着く
1868年 慶応4年 4月5日 32 中島鍬次郎、慶喜とともに水戸へ行くよう命ぜられる(『続徳川実紀』)    
1868年 慶応4年 4月6日     16 水戸藩主慶篤死去、しばらく喪を秘す
1868年 慶応4年 4月8日     16 ブリュッセルで新発明の連発銃を注文
1868年 慶応4年 4月11日 32 江戸城開城、この日慶喜、江戸を出て水戸へ向かう    
1868年 慶応4年 4月9日     16 今月より水泳を習い始める*6
1868年 慶応4年 4月15日 32 水戸着、弘道館で謹慎    
1868年 慶応4年 閏4月9日     16 日本より御用状着く(慶喜の謹慎、上野に過激な者が集結している等の内容)、この時点で昭武は留学を続けたい旨、栗本鋤雲に伝達
1868年 慶応4年 閏4月29日 32 田安亀之助、徳川宗家を相続    
1868年 慶応4年 5月7日     16 朝廷より昭武を急ぎ帰国させるよう、水戸藩に命令が下る*4
1868年 慶応4年 5月15日     16 明治政府から昭武一行に対し、帰国の命令書がもたらされる
1868年 慶応4年 5月15日     16 日本からの御用状届く、国内情勢が判明する
1868年 慶応4年 5月16日     16 慶喜の処遇が決定したことにより、帰国の方針が決定される。
1868年 慶応4年 5月17日     16 慶喜が水戸へ入ったことを日本からの手紙で知る*6
1868年 慶応4年 5月17日     16 日本からの御用状届く、昭武、帰国を決定する
1868年 慶応4年 5月20日     16 伊豆守より昭武の早く帰国せよとの書状が出される
1868年 慶応4年 5月24日 32 徳川家に駿河遠江七〇万石を賜う    
1868年 慶応4年 5月27日     16 帰国命令の請書を書き、フリューリー・エラールに託す
1868年 慶応4年 6月1日     16 平岡丹羽守以下四名から早期帰国の達書出される
1868年 慶応4年 7月18日     16 栗本鋤雲より彰義隊敗北の報届く
1868年 慶応4年 7月19日 32 水戸より駿府に移り、宝台院にて謹慎を続ける    
1868年 慶応4年 7月20日     16 日本より御用状着く、有栖川宮熾仁からの帰国命令
1868年 慶応4年 7月22日     16 フランス語教育を中止
1868年 慶応4年 7月24日     16 夕方、ロッシュ・エラール・ヴィレット大佐来訪、帰国に決する旨フランス側に伝える、夜、クーレ来訪
1868年 慶応4年 7月 32 鈴木真一、慶喜の小姓を撮影する*3    
1868年 慶応4年 8月2日     16 鉄砲・写真・地図・望遠鏡等買上げ品を決める
1868年 慶応4年 8月5日     16 午後、絵の教師ジェ-ムズ・ティソ、昭武の肖像を描く
1868年 慶応4年 8月6日     16 水戸藩より迎えの井坂泉太郎、服部潤次郎到着
1868年 慶応4年 8月11日     16 乗馬姿を写真撮影
1868年 慶応4年 9月1日     16 ビアリッツ着、離宮でナポレオン一家に暇乞い
1868年 慶応4年 9月4日     16 夜、ペリュ-ズ号でマルセイユを出帆
1868年 明治元年 9月8日 32 明治と改元    
1868年 明治元年 11月3日     16 夕刻 神奈川上陸
1869年 明治元年 11月23日     17 天皇に拝謁、外国の事情を説明する*5
1869年 明治元年 11月24日     17 昭武に箱館賊徒追討を命じる事を決定*4
1869年 明治元年 11月25日     17 水戸藩襲封(第一一代藩主)
1868年 明治元年 - 32 亀谷徳二郎、同とよ父子、京都より長崎に帰り木下町に写真館を開く*3    
1868年 明治元年 - 32 船橋鍬次郎に「京都の旅舎における自像」、「旅館内厩」、「愛馬飛電」、「二条城内」、「二条城本丸」(鶏卵紙四ツ切)を撮影させる*3    
1868年 明治元年 - 33 静岡在住の慶喜、船橋鍬次郎について写真術を研究する*3    
1868年 明治元年 - 32 明石博高、将軍慶喜に乞いてオランダより写真器械を購め、わが国初の大板撮影を行い印画を献上する*3    
1869年 明治2年 4月15日     17 水戸藩兵士二百人、箱館賊徒追討のため江差へ向かう
1869年 明治2年 5月 33 徳田孝吉、朝敵として幽閉中の松本良順に写真術を学ぶ*3    
1869年 明治2年 6月17日     17 版籍奉還を許され、水戸知事に任命される*4
1869年 明治2年 8月17日     17 水戸藩に天塩国の苫前・天塩・上川・中川・麟嶋の五郡の開拓許可おりる*4
1869年 明治2年 9月14日     17 参朝、箱館追討の軍功をもって三千五百石の永世下賜の行賞を受ける*4
1869年 明治2年 9月28日 33 謹慎を解かれる    

年表の作成には『徳川慶喜公伝』史料編(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)、『徳川慶喜のすべて』(新人物往来社)、『渋沢栄一滞仏日記』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)、『徳川昭武』(中公新書)、『新稿 一橋徳川日記』(続群書類従完成会)などを参照し、自記の*1、*2、*7の資料から徳川慶喜と昭武に関する写真関係記事などを付加した。なお、年表中の注記は次の通り。また、徳川昭武渡欧時の年月日は陰暦によった。

*1『徳川慶喜家家扶日記』(未公刊・個人蔵)、*2『松戸御別邸日録』(未公刊・『松戸徳川家資料目録』第二集参照)、*3『日本写真史年表』(講談社)、*4『水戸藩資料』(吉川弘文館)、*5『明治天皇紀』(吉川弘文館)、*6『御日記』(未公刊・徳川昭武の第一次渡欧時の自筆日記・『松戸徳川家資料目録』第一集参照)、*7『(戸定)備忘録』(未公刊・徳川昭武自筆の手控え・『松戸徳川家資料目録』第一集参照)

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