徳川慶喜・昭武関係年表 三
更新日:2013年11月25日
1897年(明治30年)11月19日~1913年(大正2年)11月30日
西暦 | 元号 | 月日 | 年齢 | 慶喜関係記事 | 年齢 | 昭武関係記事 |
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1897年 | 明治30年 | 11月19日 | 61 | 巣鴨邸へ移住(明治34年12月24日まで) | ||
1897年 | 明治30年 | 12月20日 | 45 | 従二位に叙せられる*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 3月2日 | 62 | 初めて参内、天皇・皇后に拝謁する | ||
1898年 | 明治31年 | 5月1日 | 62 | 写真現像のため小梅邸に出掛ける*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 5月5日 | 46 | 午前十一時頃より巣鴨邸を訪問する | ||
1898年 | 明治31年 | 5月8日 | 62 | 戸定邸を訪問、写真撮影や陶製などを行い、落語を楽しむ | ||
1898年 | 明治31年 | 5月27日 | 62 | 46 | 有栖川宮・慶喜、戸定邸を訪問、写真・陶器製造などを見学する | |
1898年 | 明治31年 | 5月30日 | 62 | 昭武を伴い勧工場に行く*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 6月8日 | 62 | 写真現像のため、小梅邸に赴く*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 6月27日 | 62 | 写真撮影のため、加賀町御邸へ赴く*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 7月6日 | 62 | 写真現像のため、三時過ぎより小梅邸を訪う*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 7月12日 | 46 | 篤敬死去、圀順が水戸徳川家当主となる、昭武は後見となる | ||
1898年 | 明治31年 | 8月27日 | 62 | 昭武を伴い葉山に行く*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 9月10日 | 62 | 昭武と共に小石川丸山町の有栖川宮別邸に赴く、帰途巣鴨邸に同道し晩餐を共にする*1 | ||
1898年 | 明治31年 | 9月30日 | 62 | 狩猟のため戸定邸を訪れる、この年、両者は度々猟、釣を共にする*1*2 | ||
1898年 | 明治31年 | 10月4日 | 62 | 昭武と共に江戸川で釣をする、この日慶喜帰京*2 | ||
1898年 | 明治31年 | 10月5日 | 46 | 慶喜とともに水元村、明村にて狩猟する*2 | ||
1898年 | 明治31年 | 10月15日 | 62 | 狩猟の帰途、戸定邸に立ち寄る | ||
1898年 | 明治31年 | 10月22日 | 62 | 昭武と共に取手町近方稲村で狩猟、この日戸定邸に一泊*2 | ||
1899年 | 明治32年 | 1月7日 | 63 | 昭武とともに小金地方にて狩猟、帰途戸定邸に泊る、この年、慶喜は頻繁に戸定邸を訪れ、狩猟などを共にする*2 | ||
1899年 | 明治32年 | 5月14日 | 63 | 榎本武揚に写真を送る | ||
1899年 | 明治32年 | 5月20日 | 63 | 松本宅へ写真撮影に赴く | ||
1899年 | 明治32年 | 5月26日 | 63 | 昭武同伴で上野近辺へ写真撮影に行く | ||
1899年 | 明治32年 | 8月17日 | 63 | 日光に旅行、9月2日帰京 | ||
1900年 | 明治33年 | 1月19日 | 64 | 昭武と共に柏にて狩猟*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 1月21日 | 64 | 葉山の有栖川宮別邸に滞在、狩猟を行う、馬車二輌を賜る | ||
1900年 | 明治33年 | 3月6日 | 64 | 池上本門時辺へ写真撮影に行く | ||
1900年 | 明治33年 | 5月 | 48 | 三女直子誕生 | ||
1900年 | 明治33年 | 6月9日 | 64 | 狩猟の帰途、戸定邸に立ち寄る*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 6月 | 64 | 麝香間伺候となる | ||
1900年 | 明治33年 | 10月1日 | 64 | 狩猟のため戸定邸に来る*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 10月19日 | 64 | 昭武と共に利根川にて釣、この日戸定邸に泊る*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 10月20日 | 64 | 昭武と共に小合猿又にて狩猟*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 12月12日 | 64 | 中島待乳、大日本写真協会雑誌へ掲載するための写真拝借を慶喜に依頼 | ||
1900年 | 明治33年 | 12月15日 | 64 | 昭武と共に取手にて狩猟、戸定邸に滞在*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 12月16日 | 64 | 昭武と共に千駄堀にて狩猟、戸定邸に滞在*2 | ||
1900年 | 明治33年 | 12月17日 | 64 | 小金にて狩猟、この日帰京 | 48 | 小合にて狩猟*2 |
1900年 | 明治33年 | 12月21日 | 48 | 慶喜より猟犬を拝借する*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 3月23日 | 65 | 戸定邸来訪*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 6月14日 | 65 | 中島待乳、以前に賜った揮毫のお礼として写真額一面等を持参*1 | ||
1901年 | 明治34年 | 7月31日 | 65 | 昭武と共に布佐にて狩猟、戸定邸に立寄らず*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 8月16日 | 65 | 昭武と共に釣*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 9月 | 49 | 四女温子誕生 | ||
1901年 | 明治34年 | 10月14日 | 65 | 戸定邸来訪*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 10月15日 | 65 | 昭武と共に本郷から馬橋付近にて狩猟、戸定邸に滞在*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 10月16日 | 65 | 昭武と共に小合にて狩猟*2 | ||
1901年 | 明治34年 | 11月 | 49 | 慶喜と大能へ狩猟旅行 | ||
1901年 | 明治34年 | 12月24日 | 65 | 小日向第六天町へ移る | ||
1902年 | 明治35年 | 1月2日 | 66 | 中島待乳賀表奉呈 | ||
1902年 | 明治35年 | 6月3日 | 66 | 改めて公爵を受爵 | ||
1902年 | 明治35年 | 11月22日 | 66 | 戸定邸に例年の通り牛大和煮を送る*2 | ||
1902年 | 明治35年 | 12月20日 | 50 | 正二位に叙せられる*3 | ||
1903年 | 明治36年 | 4月1日 | 51 | 勲二等瑞宝章を授けられる | ||
1903年 | 明治36年 | 10月15日 | 67 | 昭武と共に小合にて狩猟*2 | ||
1904年 | 明治37年 | 5月16日 | 68 | 昭武と共に小金沼にて釣、この日帰京*2 | ||
1905年 | 明治38年 | 4月28日 | 69 | 慶喜ら、戸定庭園、松戸郊外にて写真撮影*2 | ||
1905年 | 明治38年 | 6月11日 | 53 | 写真道具を小梅より引き取る*2 | ||
1906年 | 明治39年 | 1月26日 | 70 | 参内し七〇歳を賀して木盃・酒肴料を拝受する | ||
1906年 | 明治39年 | 2月15日 | 54 | 写真撮影のため、下矢切第六天・小金神社に赴く*2 | ||
1906年 | 明治39年 | 3月20日 | 54 | 写真撮影のため小岩・芝又に赴く*2 | ||
1906年 | 明治39年 | 6月15日 | 54 | 写真撮影のため一橋様(徳川達道)と小金に赴く*2 | ||
1906年 | 明治39年 | 10月2日 | 70 | 戸定邸に奈良漬等を送る*2 | ||
1907年 | 明治40年 | 9月21日 | 71 | 勲四等に叙し、旭日小綬章を受ける | ||
1908年 | 明治41年 | 4月17日 | 56 | 小梅本邸へ四ツ切写真機を渡す*4 | ||
1908年 | 明治41年 | 4月30日 | 72 | 勲一等・旭日大綬章を受ける | ||
1908年 | 明治41年 | 6月6日 | 56 | 当地競馬写真を撮影、7日同*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 3月19日 | 57 | 午後一時頃より写真撮影、釣のため十郎池へ赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 4月18日 | 57 | 松平親信とともに写真撮影のため古ヶ崎方面へ赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 5月5日 | 57 | 写真撮影のため付近へ出かける*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 6月12日 | 57 | 芝又地方へ写真撮影に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 6月13日 | 57 | 写真撮影のため古ヶ崎方面に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 6月14日 | 57 | 写真撮影のため樋之口に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 7月15日 | 57 | 直子・温子、写真撮影のため古ヶ崎排水所へ赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 7月18日 | 57 | 松戸薬剤師白井和吉、戸定邸にてヒヲヒ印画紙鍍金現像術を行う*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 7月26日 | 57 | 写真撮影のため金町香取神社付近へ行く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 7月27日 | 57 | 写真撮影のため金町へ行く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 9月22日 | 57 | 時計商鈴木茂八、写真機売込みに来邸*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 10月8日 | 57 | 写真撮影のため古ヶ崎方面に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 10月18日 | 57 | 写真撮影のため矢切方面に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 10月20日 | 57 | 本邸よりの使者、写真用薬品等持参*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 10月24日 | 57 | 写真撮影のため古ヶ崎方面に赴く*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 10月31日 | 57 | 白井和吉、写真元版返上*2 | ||
1909年 | 明治42年 | 12月19日 | 57 | 写真撮影のため松戸市外散歩*2 | ||
1910年 | 明治43年 | 7月1日 | 58 | 従一位に叙せられ、勲一等授瑞宝章を受ける*5 | ||
1910年 | 明治43年 | 7月3日 | 58 | 東京小梅邸に薨じる、明治天皇より御沙汰書の下賜あり 享年五十八歳*5 | ||
1910年 | 明治43年 | 7月11日 | 58 | 瑞竜山に埋葬される 私に節公と諡する | ||
1910年 | 明治43年 | 12月8日 | 74 | 家督を七男慶久に譲り隠居 | ||
1913年 | 大正2年 | 11月5日 | 77 | 九男誠分家、男爵を授けられる | ||
1913年 | 大正2年 | 11月22日 | 77 | 死去、旭日桐花大綬章を受ける | ||
1913年 | 大正2年 | 11月30日 | 77 | 谷中墓地に葬られる |
年表の作成には『徳川慶喜公伝』史料編(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)、『徳川慶喜のすべて』(新人物往来社)、『渋沢栄一滞仏日記』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)、『徳川昭武』(中公新書)、『新稿 一橋徳川日記』(続群書類従完成会)などを参照し、自記の*1、*2、*7の資料から徳川慶喜と昭武に関する写真関係記事などを付加した。なお、年表中の注記は次の通り。また、徳川昭武渡欧時の年月日は陰暦によった。
*1『徳川慶喜家家扶日記』(未公刊・個人蔵)、*2『松戸御別邸日録』(未公刊・『松戸徳川家資料目録』第二集参照)、*3『日本写真史年表』(講談社)、*4『水戸藩資料』(吉川弘文館)、*5『明治天皇紀』(吉川弘文館)、*6『御日記』(未公刊・徳川昭武の第一次渡欧時の自筆日記・『松戸徳川家資料目録』第一集参照)、*7『(戸定)備忘録』(未公刊・徳川昭武自筆の手控え・『松戸徳川家資料目録』第一集参照)