館長室から
松戸市立博物館長 渡辺 尚志
挨拶
2022年4月から館長に就任しました、渡辺尚志と申します。専門は日本近世史(江戸時代史)で、江戸時代の村と農民の歴史についてずっと研究してきました。
私は約30年前から松戸市に住んでいますので、松戸市の近世についても少しずつ研究しています。具体的な成果としては、幸谷村(現在の新松戸駅周辺)を取り上げた『殿様が三人いた村』(崙書房出版、2017年、現在は絶版)、『言いなりにならない江戸の百姓たち』(文学通信、2021年)を刊行しました。また、論文集『近世の村と百姓』(勉誠出版、2021年)のなかにも、幸谷村を対象とした論文を収めています。松戸市域以外を扱った最近の出版物としては、2022年4月に『武士に「もの言う」百姓たち』が草思社文庫から再刊されました(初版は2012年)。これからもさらに松戸市域の歴史研究に力を入れ、その成果をわかりやすく皆様にお伝えしていきたいと思います。
経歴
1957年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。一橋大学名誉教授。専門は日本近世史・村落史。
著書
- 『松戸の江戸時代を知る(1) 小金町と周辺の村々』(たけしま出版、2023年)
- 『松戸の江戸時代を知る(2) 城跡の村の江戸時代』(たけしま出版、2023年)
- 『松戸の江戸時代を知る(3) 川と向き合う江戸時代』(たけしま出版、2024年)
- 『百姓たちの江戸時代』(ちくまプリマー新書、2009年)
- 『百姓の力 江戸時代から見える日本』(角川ソフィア文庫、2015年)
- 『海に生きた百姓たち』(草思社文庫、2022年)
テレビ出演
- NHK BS「英雄たちの選択」(BS4K:2024年11月7日 20時から、BS:2024年11月11日 21時から)
最新!江戸時代人は魚を今よりたくさん食べていた?(2025年5月5日)
これまで、3回にわたって、江戸時代の松戸河岸における鮮魚輸送について述べてきました。今回は、一回り広い視野から、江戸時代人と魚の関係を考えてみましょう。
よく、和食は健康によいとか、日本人の長寿の秘訣は和食にあるとか言われます。そして、和食の特色は、魚と野菜が中心で、肉が少ないところにあるとされます。しかし、江戸時代の日本人は、本当に現代人以上に魚を食べていたのでしょうか。
江戸時代に、水産物の漁獲量や消費量についての全国統計はありませんが、明治以降の統計資料から江戸時代の様子を類推することはできます。以下、川島博之氏の著書『食の歴史と日本人』(東洋経済新報社、2010年)に依拠して述べましょう。
まず、漁獲量から。明治期(1912年まで)の漁獲量は、現在と比べると微々たるものでした。20世紀に入って、漁獲量は徐々に増加しますが、太平洋戦争によって大きく落ち込みます。そして、1950年代以降、急激に増加するのです。1980~90年代をピークに、漁獲量は減少傾向にありますが、それでも今日の漁獲量は、江戸時代をはるかに上回っているのです。
水産物の消費量からも、同様の傾向を指摘できます。1890年代における、日本人の年間1人当たりの水産物消費量は10キログラム前後でした。1900年以降、徐々に増加して、1930年代には年間1人当たりの消費量が50キログラムに近づきますが、太平洋戦争によって大きく落ち込みます。そして、終戦後に急激に増加して、1980年代には100キログラムを超えてピークとなり、以後は減少傾向に転じます。
このように、水産物の漁獲量と消費量の歴史的変遷は同じ傾向を示しています。そこから類推すると、江戸時代における漁獲量や消費量は、明治期と同等かそれ以下であり、現代よりはるかに少なかったと思われます。「日本人は、昔から魚をたくさん食べていた」というのは、思い込みだといえます。
江戸時代に魚介類の漁獲量や消費量が少なかった理由は、2つあります。動力船と、冷蔵・冷凍技術の未発達です。江戸時代には、漁船は漁師が手で漕ぎました。それでは、遠くの沖合まで出漁することはできません。遠洋漁業がさかんになったのは、動力船(エンジンなどの動力を用いて進む船)の導入以降であり、江戸時代の沿岸漁業では、漁獲量にはおのずと限界がありました。
また、魚は生鮮食品であり、長期間の保存がききません。そのため、冷蔵・冷凍技術が未発達だった江戸時代には、鮮魚を遠くまで輸送することは困難でした。魚の一部は干物や節物(鰹節や鯖節など)に加工されて遠隔地まで運ばれましたが、鮮魚の流通範囲は限定されていました。
そうしたなかで、鮮魚を江戸っ子に届けるために、松戸河岸の果たした役割はとても大きかったのです。
