館長室から(最新)
松戸河岸で積み荷の抜き取り事件が起こる(2024年8月16日)
江戸時代には、松戸宿の江戸川沿いの一角に河岸場(船荷の積み降ろし場所)がありました。銚子で水揚げされた鮮魚や、松戸宿の後背の台地上の林で生産された薪・炭が、松戸河岸まで馬で運ばれ、そこで船積みされて江戸などに運ばれたのです。松戸河岸は、陸運と舟運の結節点として重要な役割を果たしていました。
18世紀後半以降の松戸河岸は納屋河岸と下河岸の2か所に分かれていましたが、納屋河岸で荷物の積み降ろしを主導した河岸問屋が青木家です。同家には、当時を物語る貴重な古文書が多数、大切に保管されています。それらの古文書からは多くのことがわかりますが、以下ではその一端を述べましょう。
当時、鮮魚荷物の多くは、銚子で船に積まれて利根川を遡り、布佐河岸(現我孫子市)で陸揚げされて、陸路を馬で松戸河岸まで運ばれ、そこで再度船積みされて、江戸川を下って江戸まで運ばれました。
そうしたなかで、安永8年(1779)に、鮮魚荷物の抜き取り事件が起こりました。布佐河岸の問屋石井源左衛門と松戸河岸の問屋青木源内が引き受けて、江戸に送った荷物を、江戸の魚問屋が確認したところ、魚が入っているはずの籠の中に、魚の代わりに、石や芝土(草と土)などが入っていたのです。運送途中で、何者かが、魚と石・芝土とをすり替えてしまったのです。盗んだ魚は、密かに売り払ったのでしょう。
江戸問屋から知らせを受けた荷主(鮮魚荷物の送り主)の銚子商人たちは、石井源左衛門と青木源内を問いただしました。そこで、源左衛門と源内が、馬方(馬の牽き手)や船頭を取り調べたところ、芝土を入れたのは布佐から松戸まで魚を運んだ馬方の仕業で、石を入れたのは松戸の船頭であることが判明しました。
怒った荷主たちは、以後、荷物はほかの河岸を使って送ると言い出しました。しかし、荷主たちは、源左衛門と源内にとっては年来の馴染みの取引相手です。今回のことで取引をやめられては、源左衛門と源内にとっては、外聞も悪いし、営業面でもマイナスになってしまいます。そこで、2人は、荷主の商人たちのうち4人を仲介役に頼んで、商人たちに詫びを入れたところ、商人たちも謝罪を了承してくれました。
それを受けて、源左衛門と源内は、安永8年12月に、銚子の商人たちに宛てて、「今後、荷物を馬や船で運んでいるうちに、少しでも今回のような不埒・不法な行為があった場合は、荷物1個につき金1両(約8~15万円)を弁償します。さらに、事件処理の際にかかった経費は、すべてこちらで負担します」と記した書付(書面)を差し出しています。
荷物の抜き取りは、直接には源内ら河岸問屋から運送を請け負った者たちの仕業でしたが、彼らに運送を委託した源内らも監督不行き届きだとして責任を問われたのです。河岸問屋は、こうしたトラブルの解決にも奔走しなければなりませんでした。河岸が物流の拠点として円滑に機能するためには、河岸問屋の絶え間ない営業努力と多方面への気配りが必要だったのです。