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松戸市立博物館
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館長室から(最新)

お上にモノ申す江戸の百姓たち(2023年11月8日)

江戸時代の主人公は百姓

 皆さんは、江戸時代の百姓について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。武士に年貢を搾り取られて、食うや食わずの貧困生活にあえぎ、我慢の限界に達すると百姓一揆を起こして弾圧されるといったイメージではないでしょうか。あるいは、質朴ではあっても、文化や教養とは無縁で、江戸時代史の裏方・脇役に過ぎないとお思いかもしれません。
 たしかに、テレビの時代劇や時代小説では、著名な武士たちの活躍や華やかな町人の暮らしばかりがクローズアップされがちです。しかし、彼らは、江戸時代においては少数派でした。江戸時代の人口の約8割は村に住む百姓たちだったのです。ですから、政治の実権を握り、我が物顔でふるまっているようにみえる武士たちも、当時の圧倒的多数者だった百姓たちの世論や動向に配慮することなしには、安定的な支配を続けることはできませんでした。
 そうした意味で、百姓たちこそ、江戸時代の社会を支え、かつ動かした深部の力だったといえます。江戸時代の真の主役は百姓たちであり、その実態を知らずして江戸時代を本当に理解することはできません。このような観点に立ちつつ、以下、具体的な事例から、江戸時代の百姓と領主(武士)との関係をみてみましょう。

武士が百姓に借金を申し込む

 取り上げるのは、旗本土屋家とその領地の村々の百姓たちです。土屋家は、関東地方の7か村に合わせて1150石ほどの領地をもっていました(現松戸市域では、大谷口(おおやぐち)(むら)(くり)()(さわ)(むら)に領地がありました)。大名に比べれば小規模ですが、将軍にお目見えできる幕府の(じき)(しん)(将軍の直属家臣)です(以下の記述は、松戸市立博物館所蔵大熊家文書によるものです)。
 土屋家を含む大半の領主たちは、江戸時代後期(19世紀)には財政難に陥っていました。泰平の世が続いて生活水準が上昇するにともなって、消費支出は増大します。しかし、年貢を中心とする収入は、支出の増大に見合うほど増えません。百姓たちの抵抗によって、年貢の増徴が困難だったのです。そのため、領主財政は連年の赤字となり、債務が累積していきました。
 そこで、土屋家がとった財政危機の打開策は、領地の村人たちから借金することでした。年貢は取りっぱなしですが、借金は利子をつけて返済するものです。後で返してもらえると思えば、村人たちの抵抗も少ないと踏んだのです。しかし、借金もたび重なると、村人たちは出金に難色を示すようになり、土屋家側は低姿勢で借金を依頼せざるを得なくなります。
 天保(てんぽう)3年(1832)に、土屋家の家臣・須藤(すどう)太郎(たろう)は、領地の村々に借金を申し込むに際して、「村々の経済的負担を軽減すべく、当方(須藤)も、粉骨砕身(ふんこつさいしん)働いておる。しかし、日夜さまざまな俗事に責め付けられ、千辛(せんしん)(ばん)()の苦労に心魂(しんこん)を奪われて、取るべき手段も尽き果ててしまった。今回の出金も、是非とも出せというわけではないのだが、もし領地の村々の百姓たちから出金を断られたら、土屋家の財政はたちまち行き詰まってしまう。こちらも、まことに戦々恐々として薄氷(はくひょう)を踏み破るような思いをしておるのだ。外聞(がいぶん)も内実も立ち行かず、昼夜とも苦難が耐え難くなってきておる。そこを理解したうえで、村々のほうでもよく相談してもらいたい」と述べています。
 このように、正直に苦しい胸の内を吐露(とろ)しているわけです。ここには、百姓に威張り散らす武士の姿はかけらもありません。財政難が、武士の立場を弱くしていたのです。
 このあとの展開については、また次回お話しましょう。(続く)

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