館長室から(過去の記事)
お上にモノ申す江戸の百姓たち・完(2024年5月9日)
今回は、前回を受けて、旗本土屋家と大谷口村の百姓たちとのせめぎあいのその後についてお話ししましょう。
村人たちに財布のひもを握られるという状況に対して、土屋家側では反撃の手を打ちました。 須藤 久三郎という者を、新たに家臣として雇い入れたのです。19世紀になると、領主と家臣の関係において、同じ家の家臣が代々同じ主君に 仕えるというかたちが 崩れてきました。能力や財力を買われて、新規に中途採用される者が増えてきたのです。須藤久三郎も、そうした一人でした。
須藤にすれば、せっかく採用してくれた主君に自身の能力をアピールする必要があります。当時、土屋家が抱えていた最大の難題は財政赤字でしたから、須藤はさっそくその解消に乗り出しました。しかし、そのやり方は、村人たちが提案したものとは正反対でした。須藤は、村人たちからそれまで以上に金を 搾り取って土屋家の収入を増やすことで、財政赤字を解消しようとしたのです。
当然ながら、村人たちはそれに抵抗します。すると、須藤は、村役人たちを土屋家の江戸屋敷に呼びつけて、 天保5年(1834)5月4日の昼過ぎから翌5日の明け方までぶっ通しで、村役人たちに出金を迫りました。その間、須藤は、村役人たちを 便所にも行かせませんでした。須藤こそ、多くの方が抱く武士のイメージにぴったりですが、百姓の側は言いなりになってはいませんでした。村役人たちは、 頑として出金を拒否したのです。
しかし、このままでは、これから先どんなひどい目に 遭わされるかわかりません。そこで、村役人たちは、5月5日にいっせいに 雲隠れしてしまいました。もちろん、村人たちには 潜伏 先を知らせておきました。そして、8月に、土屋家の親類たちに、須藤を土屋家から追放してほしいという 嘆願書を提出しました。天保4年(1833)の 駕籠訴のときと同様、親類たちから土屋家当主を説得してもらおうという戦術です。ただ、今回は前回のようにはうまくいかなかったため、村役人たちは、天保8年(1837)に、再度親類たちに須藤の 罷免を求めました。その後、須藤の名は文書に出てこないので、罷免は実現したと思われます。もはや、「百姓は 脅せば言うことを聞く」といった考えが通用する余地はなくなっていました。逆に、百姓が武士を辞めさせる時代になっていたのです。
ただし、須藤がいなくなっても、土屋家の財政状況が好転したわけではありません。以後も、土屋家から領地の村々への借金の申し込みは続きました。村々の側でも、殿様からの頼みということで、100パーセント拒否することはできませんでした。村役人たちが土屋家の財政を管理しているといっても、頼まれればある程度財布のひもを 緩めざるを得なかったのです。けれども、もはや村人たちは土屋家の言いなりになってはいませんでした。自分たちが許容できる範囲内で、主体的に土屋家の要求に対応していたのです。こうして、土屋家と領地の村々の村人たちとのせめぎあいは幕末まで続きました。
以上、土屋家と領民の事例から、江戸時代後期における武士と百姓の関係の実態をみてきました。そこからは、百姓たちが領主に対してしっかりと自己主張し、領主財政のあり方を 規定するまでに力をつけてきたことが見えてきます。
こうしたあり方は、 旗本という小規模領主だからこそ、典型的に表れたという側面はあります。しかし、幕府領でも大名領でも、お上に「モノ申す」百姓が増えてきた点は共通していました。幕末に向けて、百姓たちは江戸時代の主人公としての実質をますます強化していったのです。(完)
お上にモノ申す江戸の百姓たち・続(2024年2月11日)
前回の「館長室から」では、 天保3年(1832)に、土屋家の家臣・ 須藤 太郎が、武士とは思えない低姿勢で、領地の村々に借金を申し込んだところまでお話ししました。
ですが、村人たちも、低姿勢で頼まれたからといって、おいそれと出金できるほど 懐が豊かではありません。そこで、天保3年12月に、土屋家の領地7か村の村人たちは、土屋家に財政改革の提案を行ないました。土屋家の赤字財政が続くかぎり、土屋家から村人たちへの借金依頼もなくなりません。土屋家の財政再建という抜本的な改革が必要でした。しかし、土屋家の側でそれを行なうようすがないので、しびれを切らした村々の側が具体案を出したのです。村人たちは、土屋家の年間の支出額に上限枠を設けるとともに、同家江戸屋敷の敷地内の空き地や長屋を人に貸して借地・借家料を取ることを提案しました。倹約して支出を減らすとともに、少しでも収入を増やして、収支のバランスをとるよう求めたのです。
けれども、土屋家にすれば、こうした身を切る改革はできればやりたくないので、なかなか村人たちの提案を受け入れようとはしませんでした。そこで、次の手として、村人たちは 駕籠訴という非常手段に出ました。駕籠訴とは、百姓が幕府の要人や大名・旗本家の当主に直接訴えることです。彼らが乗った駕籠の前に走り出て、訴状を差し出すのです。手順を踏んで担当役人に願い出ていてはらちが明かないときに、担当役人を飛び越して、直接殿様に訴えるわけです。駕籠訴はルールにはずれた違法行為ですが、厳しく処罰されることはありませんでした。
土屋家領の村人たちは、天保4年2月に、土屋家の親類の旗本たちに駕籠訴を決行しました。土屋家の当主に言っても聞いてもらえないので、親類たちに訴えて、彼らから土屋家当主に意見してもらおうという作戦です。この作戦は成功し、同年3月には、土屋家と村人たちとの間で、土屋家の年間の支出額に上限枠を設けることで合意が成立しました。村人たちの要求が通り、領主の財政に枠をはめることに成功したのです。
それだけではありません。以後は、土屋家の財政を、領地村々の村役人(名主など村の代表者)たちが管理することになりました。本来、領主は、領地の村々から納められる年貢のうちから、生活費や家臣の給料などを支出していました。年貢の使い道はすべて領主が決めており、百姓は自分たちが納めた年貢の使途には口を出せなかったのです。
それが、天保4年からは大きく変わりました。土屋家が、必要な金をその都度村役人に請求して渡してもらうことになったのです。たとえば、衣服が買いたいときは、土屋家が村役人に購入費用を渡してもらうのです。そして、年末に村々から土屋家への年間の支出額を合計して、それと村々から納めるべき年貢額とを相殺して精算するわけです。このようなかたちで、村役人たちが土屋家の財政を管理し、年貢の使途をチェックするようになりました。土屋家の家臣たちの給料まで、村役人たちから渡しています。あたかも、村人たちが家臣を雇っているようなかたちになったのです。ここには、武士が百姓を支配して、強圧的に年貢を搾り取るといった姿はまったくみられません。
ただし、土屋家の側も、このまま黙って引き下がってはいませんでした。武士と百姓のせめぎあいの結末は、次回お話ししましょう。(続く)
お上にモノ申す江戸の百姓たち(2023年11月8日)
江戸時代の主人公は百姓
皆さんは、江戸時代の百姓について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。武士に年貢を搾り取られて、食うや食わずの貧困生活にあえぎ、我慢の限界に達すると百姓一揆を起こして弾圧されるといったイメージではないでしょうか。あるいは、質朴ではあっても、文化や教養とは無縁で、江戸時代史の裏方・脇役に過ぎないとお思いかもしれません。
たしかに、テレビの時代劇や時代小説では、著名な武士たちの活躍や華やかな町人の暮らしばかりがクローズアップされがちです。しかし、彼らは、江戸時代においては少数派でした。江戸時代の人口の約8割は村に住む百姓たちだったのです。ですから、政治の実権を握り、我が物顔でふるまっているようにみえる武士たちも、当時の圧倒的多数者だった百姓たちの世論や動向に配慮することなしには、安定的な支配を続けることはできませんでした。
そうした意味で、百姓たちこそ、江戸時代の社会を支え、かつ動かした深部の力だったといえます。江戸時代の真の主役は百姓たちであり、その実態を知らずして江戸時代を本当に理解することはできません。このような観点に立ちつつ、以下、具体的な事例から、江戸時代の百姓と領主(武士)との関係をみてみましょう。
武士が百姓に借金を申し込む
取り上げるのは、旗本土屋家とその領地の村々の百姓たちです。土屋家は、関東地方の7か村に合わせて1150石ほどの領地をもっていました(現松戸市域では、大谷口村と栗ケ沢村に領地がありました)。大名に比べれば小規模ですが、将軍にお目見えできる幕府の直臣(将軍の直属家臣)です(以下の記述は、松戸市立博物館所蔵大熊家文書によるものです)。
土屋家を含む大半の領主たちは、江戸時代後期(19世紀)には財政難に陥っていました。泰平の世が続いて生活水準が上昇するにともなって、消費支出は増大します。しかし、年貢を中心とする収入は、支出の増大に見合うほど増えません。百姓たちの抵抗によって、年貢の増徴が困難だったのです。そのため、領主財政は連年の赤字となり、債務が累積していきました。
そこで、土屋家がとった財政危機の打開策は、領地の村人たちから借金することでした。年貢は取りっぱなしですが、借金は利子をつけて返済するものです。後で返してもらえると思えば、村人たちの抵抗も少ないと踏んだのです。しかし、借金もたび重なると、村人たちは出金に難色を示すようになり、土屋家側は低姿勢で借金を依頼せざるを得なくなります。
天保3年(1832)に、土屋家の家臣・須藤太郎は、領地の村々に借金を申し込むに際して、「村々の経済的負担を軽減すべく、当方(須藤)も、粉骨砕身働いておる。しかし、日夜さまざまな俗事に責め付けられ、千辛万苦の苦労に心魂を奪われて、取るべき手段も尽き果ててしまった。今回の出金も、是非とも出せというわけではないのだが、もし領地の村々の百姓たちから出金を断られたら、土屋家の財政はたちまち行き詰まってしまう。こちらも、まことに戦々恐々として薄氷(はくひょう)を踏み破るような思いをしておるのだ。外聞も内実も立ち行かず、昼夜とも苦難が耐え難くなってきておる。そこを理解したうえで、村々のほうでもよく相談してもらいたい」と述べています。
このように、正直に苦しい胸の内を吐露しているわけです。ここには、百姓に威張り散らす武士の姿はかけらもありません。財政難が、武士の立場を弱くしていたのです。
このあとの展開については、また次回お話しましょう。(続く)
竹の子泥棒の犯人捜しは投票で(2023年8月13日)
江戸時代の村人たちは、自主的に自分たちが守るべき村のルールを定めていました。そのルールを村掟といいます。ここでは、現松戸市内の大谷口村で文政一三年(1830)一月につくられた村掟の一部を、現代語訳してご紹介しましょう。
近年は、村内にある他人の持山に勝手に入って、無断で竹の子を掘ったりする者がいて、若竹をひどく傷つけたりするので、山の所有者がたいへん迷惑している。
田畑の作物や、各戸の持山に生えている竹・木を盗んではいけないことは言うまでもない。そこで、竹・木だけでなく、竹の子が盗まれた場合にも、村の戸主全員に、犯人と思われる者の名前を書いて投票させる。そして、もっとも票の多かった者には過料(罰金)として銭五貫、二番目に票の多かった者には銭三貫、三番目の者には銭二貫を、それぞれ出させる。
この規定は、われわれの常識とは大きくかけ離れています。もちろん、犯人が現行犯逮捕できれば問題はありません。それができなかった場合に、江戸時代特有の犯人捜しの方法が定められているのです。それが、村の各戸の当主全員による投票です。多くの戸主たちから、犯人ではないかと疑われて名前を書かれた者は、証拠や自白がなくても犯人と見なされて過料が科されたのです。二番目、三番目に多く名指しされた者にも過料が科されることになっています。
こうしたやり方は、当然冤罪を生む危険性があるわけですが、大谷口村の村人たちは、狭い村内で互いによく見知った者たちが投票すれば、かなり高い確率で犯人を特定できると考えたのでしょう。また、日頃ほかの村人たちからよく思われていない者を懲らしめる意味合いもあったかもしれません。しかし、これで本当に犯人が特定できたかは疑問です。
それでも、こうした犯人捜しの方法は、ほかの地域の村々でもみられました。江戸時代に広く用いられた方法だったのです。こういう規定ができることによって、村人たちは、それまで以上にほかの村人たちから嫌疑をかけられないように普段から気を遣い、他者と協調した行動を心掛けるようになるでしょう。自分だけ悪目立ちして、村内で浮きあがってはいけないのです。村人たちの皆がそういう行動ふるまいを身につけることによって村のまとまりは強固なものになるでしょうが、その反面で、自分が正しいと思うことを周囲の意向に頓着せずに強く主張することは難しくなります。良かれ悪しかれ、江戸時代の村人たちは、そのように生きることで、自らの生活を守り発展させようとしていたのです。
そうした考え方、行動の仕方は、強く自己主張するよりも、場の空気を読んで周囲から浮かないことを心掛けることの多い、現代の多くの日本人とも通底するところがあるのではないでしょうか。われわれの日常の何気ない選択も、実は深いところで江戸時代の百姓たちとつながっているのです。
「林畑」って林?畑?(2023年5月19日)
松戸市域の東側は、江戸時代には幕府直営の牧場で、小金(こがね)牧(まき)と呼ばれていました。たくさんの馬が、野原に放牧されていたのです。小金牧は現代の牧場とは違って、周囲をぐるりと柵で囲まれていたわけではありません。一部には土手が築かれて、牧から馬が逃げるのを防いでいましたが(今も土手が残っている場所があります)、牧と周囲の村との境界が不明確な所も多かったのです。
そうした所では、村人が牧の一部を幕府に無断で開墾して耕地にしたり、植林してそこから薪(たきぎ)を伐り出したりすることがありました。幕府はそうした無断開墾を禁止しましたが、幕府としても耕地が増えれば、そこに年貢を賦課することで財政収入を増やせます。そこで、ときにはむしろ開墾を奨励することもありました。牧の範囲が多少狭くなっても、年貢の増収のほうを優先したのです。
そういうとき、幕府は、牧の周縁部の土地を牧に隣接する村々に払い下げます。払い下げを受けた村では、そこをさらに個々の村人に配分します。そして、村人たちがそれぞれ配分された土地を開墾するのです。幕府は、払い下げから数年後に、払い下げた土地の調査をして(この土地調査を検地(けんち)といいます)、開墾状況に応じた年貢を賦課します。
けれども、原野の開墾はたいへんな作業です。いくらがんばっても、田や畑にはならない土地も少なくありません。そうしたとき、村人たちは、そこに植樹して林にしました。そうした土地が、検地のとき、「林(はやし)畑(ばた)」という地目(ちもく)で土地台帳に登録されたのです。すなわち、「林畑」とは、畑ではなくて林でした。そこには、田畑よりは低額でしたが年貢が課されました。「林畑」という地目が広くみられたことが、牧の開墾の大きな特徴でした。
幕府としては、少額でも年貢がとれれば収入増になります。一方、村人の側は、林の木を伐って薪にしたり、炭を焼いたりして出荷すれば現金収入を得ることができます。年貢を納めても、なお手元に現金が残るのです。小金牧は江戸に近かったため、松戸(まつど)宿(しゅく)から江戸川の舟運を使えば、容易に江戸に薪や炭を送ることができました。巨大都市・江戸の市民が燃料用や暖房用に使う薪や炭は膨大な量にのぼります。村人たちは、巨大市場目当ての林産物生産によって生活を維持し豊かにしていったのです。また、「林畑」は、牧に棲む馬が村の耕地に入って作物を荒らすのを防ぐ緩衝地帯の役割も果たしました。
このように、「林畑」は村人たちのために大いに役立ちました。小金牧の周辺に特徴的にみられる「林畑」という不思議な地目は、百姓たちの暮らしに役立つ大切な土地だったのです。
「お稲荷さん」から「正一位稲荷大明神」へ(2023年1月24日)
当館に、大熊家文書という、質・量ともに第一級の文書群が収蔵されています。大熊家は、江戸時代から 下総 国 葛飾郡 大谷口 村(現松戸市大谷口)に住み、19世紀には名主を務めました。大谷口村の領主は、旗本の土屋家でした。
大熊家文書からはたくさんの興味深いことがわかります。その一端は、2022年12月9日に行なわれた松戸市立博物館友の会20周年記念講演会で、「城跡の村の江戸時代」というテーマでお話ししました。ここでは、そのときお話しできなかったエピソードをご紹介しましょう。
大熊家の10代当主 伊 兵衛(1820~1886)は、 嘉 永4年(1851)から名主を務めました。その働きぶりが評価されて、 文 久元年(1861)には土屋家から武士身分に取り立てられました。百姓から武士への身分上昇は伊兵衛にとっては嬉しいことだったでしょうが、武士になるということは、 戦のときには戦闘員として戦う義務が生じるということです。
折しも、ときは幕末、動乱の時代を迎えていました。 慶応元年(1865)には、幕府と長州藩の対立が激化し、14代将軍徳川 家 茂は武力で長州藩を屈服させるべく、兵を関西に進めました。土屋家当主の 馬之丞は幕府軍の一員として大坂に向かい、武士になったばかりの大熊伊兵衛も従軍しました。幸い、土屋馬之丞や大熊伊兵衛は実際の戦闘に参加することはなく、大坂や京都に滞在したまま、慶応2年(1866)の停戦を迎え、翌年無事に江戸に帰着しました。
この従軍期間中には、一つの副産物がありました。伊兵衛が、京都滞在中の慶応2年9月に、 公家の 白川家を訪問して、大熊家の 氏神(家の守り神)である 稲荷 大明神に 神位をいただきたいと願い出たのです。白川家は、江戸時代には吉田家と並んで、全国の神社・神職を統括していました。
伊兵衛の願いは聞き届けられて、「 正一 位 南 大熊稲荷大明神」という立派な神号をもらうことができました。その際、いくばくかの金銭を支払ったものと思われます。伊兵衛としては、ただの「お稲荷さん」よりも「正一位南大熊稲荷大明神」のような 神号が付いたほうが、神様の権威が上がると思ったのでしょう。ここに、江戸時代人の信仰心の一つの表れ方をみることができます。この稲荷大明神は、今も大熊家の敷地の一角で大切に祀られています。
なお、大谷口村の隣の 幸谷村で名主を務めた酒井家でも、 文政10年(1827)に、白川家に願って、敷地内にある稲荷社に「正一位稲荷大明神」という神号を授けられています。
「請負」で成り立つ江戸時代(2022年10月25日)
9月18日に、館長講演会を行ないました。テーマは、「江戸時代の小金宿とその周辺」です。ここでは、講演でお話ししきれなかったことを書きたいと思います。
小金宿における人や荷物の輸送業務は、小金宿の人たちだけでは担いきれませんでした。そのため、小金宿周辺の村々からも人や馬を出して、小金宿の輸送業務を補助しました。この補助業務や、それを担う村々を助郷といいます。助郷は円滑な街道交通を維持するためには不可欠でしたが、助郷を務める村人たちにとっては負担となりました。助郷務めのために小金宿まで出かけている間は農作業など家の仕事ができないからです。遠方の村の場合は、泊りがけになることもありました。
けれど、助郷村々の側も、ただ重い負担を嘆いていただけではありません。負担軽減のために、さまざまな努力をしました。その一つが、助郷務めの外部委託・外注化です。村人たちがお金を払って、小金宿や隣接村の住民に助郷務めを代行してもらったのです。その際には、助郷務めの代行を依頼する村と、助郷務めを請け負う請負人との間で、請負期間や請負金額、請け負う人馬の数などを定めた契約書を取り交わしました。こうした助郷務めの代行は、遅くとも18世紀後半には行なわれています。
助郷村の村人たちは、こうした契約によって、請負人に金を払うことで、自身が助郷務めに出向く必要がなくなります。一方、請負人は村から受け取った金で人馬を雇い、助郷の仕事を代行します。農作業が忙しくて助郷に出られない者がいる一方で、小金宿やその近隣には日雇いなどの雇用労働で現金収入を得て暮らしている人たちもいました。請負人は、そうした人たちを雇ったのです。村から受け取る代行料と、雇った者に支払う賃金との差額が請負人の利得になりました。
江戸時代には、こうした業務の代行と請負が多くの場面でみられ、請負業がビジネスとして成り立つようになっていました。今日でも金で時間を買いたいという人は多く、家事代行など代行ビジネスが盛行していますが、江戸時代にも似たような現象がみられたのです。「請負」は江戸時代の社会の特質を理解するためのキーワードであり、小金宿に関する古文書を読み解くなかから、請負の具体的なあり方が浮かび上がってくるのです。
館蔵資料展「古文書をみる 絵図をよむ 江戸時代編」(2022年8月14日)
7月16日から、館蔵資料展「古文書をみる 絵図をよむ 江戸時代編」が始まりました。ここでは、展示された資料のなかから1点を取り上げて、その背景について述べたいと思います。
取り上げるのは、No.12「質物ニ相渡申山証文之事」です。
この資料は、文政11(1828)4月に、幸谷村(現松戸市幸谷)の辰蔵が、同村の武左衛門から借金して、その担保として持山1か所を質入れした際に作成された契約書です。借金の返済期限は2年後の文政13年(1830)12月で、期限までに借金を返済できないときは、担保の山が質流れになって、山は武左衛門のものになるという契約です。
ところが、辰蔵は、文政13年12月になっても借金を返せませんでした。現代であれば、担保物件の権利は当然債権者(金の貸し手)のほうに移るはずです。しかし、辰蔵は、借金が返せなくても、山の権利を失うことはありませんでした。それどころか、その後天保4年(1833)になって、同じ山を担保に、さらに追加で借金しているのです。
これ以降も、担保の山は質流れになることはなく、辰蔵の質入れ状態がずっと続きました。辰蔵は、いつでも金ができたときに借金を返せば、担保の山を取り戻すことができたのです。
つまり、辰蔵と武左衛門の貸借関係は、「質物ニ相渡申山証文之事」に記載された契約内容とはまったく異なったかたちで推移したわけです。これでは、借金の返済期限など、あってないようなものだといえるでしょう。辰蔵にとっては、たいへんありがたいことでした。現代ではとても通用しないあり方ですが、江戸時代にはこうしたことが普通に行なわれていたのです。
ただし、江戸時代の人たちはおおらかだったから、これでもよかったというわけではありません。
当時の人たちも、契約内容は当然守るべきだと考えていました。しかし、一方で、やむを得ない事情で借金が返せない場合には、返済を猶予したり、場合によっては追加で金を貸したりすることもやむを得ないと考えていたのです。辰蔵と武左衛門は同じ村の住民ですから、武左衛門は辰蔵の経済状態をよくわかっていました。武左衛門は、生活が苦しい辰蔵に配慮して、温情的な措置をとったのでしょう。このように融通をきかせて村人同士が助け合うことによって、村内の良好な人間関係が保たれていたのです。
このように、1点の資料からでも、その周囲を調べていけば、江戸時代の村における人びとの結びつきのありようを具体的に知ることができるのです。
館長就任のご挨拶(2022年5月6日)
4月から新しく館長に就任しました、渡辺尚志(わたなべ たかし)と申します。昨年3月までは、一橋大学に勤めていました。専門は日本近世史(江戸時代史)で、江戸時代の村と農民の歴史についてずっと研究してきました。
私は29年前から松戸市に住んでいますので、松戸市の近世についても少しずつ研究しています。具体的な成果としては、幸谷(こうや)村(現在の新松戸駅周辺)を取り上げた『殿様が三人いた村』(崙書房出版、2017年、現在は絶版)、『言いなりにならない江戸の百姓たち』(文学通信、2021年)を刊行しました。また、論文集『近世の村と百姓』(勉誠出版、2021年)のなかにも、幸谷村を対象とした論文を収めています。松戸市域以外を扱った最近の出版物としては、今年4月に『武士に「もの言う」百姓たち』が草思社文庫から再刊されました(初版は2012年)。館長就任を機に、これからはさらに松戸市域の歴史研究に力を入れ、その成果をわかりやすく皆様にお伝えしていきたいと思います。
4月には、藤原哲さん(弥生・古墳時代史)、林幸太郎さん(近代史)のお2人が、新たに当館の学芸員として着任しました。館員一同、今年度も新たな気持ちで業務に取り組んでいきたいと思いますので、引き続きご支援のほどよろしくお願い致します。
退任のご挨拶(2022年3月31日)
皆様お元気でお過ごしのことと存じます。
さて、このたび、10年間勤めてまいりました博物館を退任いたしました。 一口に10年といっても、長いようでもあり、短いようでもありました。就任3年目の冬に思いがけず脳出血を患いましたが、比較的軽かったので何とか勤めを続けることができたのは幸いでした。自分が障害者となったことで、各地の博物館・美術館の障害者対応に目を向けるようになりました。障害者にも優しい博物館・美術館はどうあるべきかを考えながら過ごした日々でもありました。
現在、博物館は、市民の皆様により一層愛される博物館を目指して、施設・展示のリニューアルを進めています。私もこれからは観覧者の一人として博物館を見守っていく所存です。 望月幹夫
古墳時代はマジカルワールドだ!?(2021年11月5日)
昨年に引き続き、今年も新型コロナウイルスにおびえながらの1年になりました。年度当初に立てた予定が実行できるか心配でしたが、このところの急激な感染者の減少にホッとしながらも、冬に向けて気を引き締めなければと思っています。
さて、今年の企画展は、「古墳時代のマジカルワールド」です。コロナ禍で満足な準備ができなかったなかで、担当学芸員は苦心して展示を構成してくれました。祭祀が重要な意味を持っていた卑弥呼の時代から続く古墳時代にどんなマジカルワールドが展開されたのか、じっくりとご覧ください。普段なかなか見ることの出来ない各地の資料が並んでいます。奈良県箸墓古墳の特殊器台片、静岡県山ノ花遺跡の木製祭具、千葉県神門3号墳の土師器群、県内各地の古墳から出土した各種の埴輪など、見るべき資料が並んでいます。それに市内栗山古墳群から出土した埴輪も展示していますので、他の埴輪と比べてご覧ください。
たくさんある資料の中で、私は静岡県洗田遺跡の土製模造鏡が気になっています。うっかりすると見過ごしてしまいそうですが、線刻で顔が描かれていると私は考えています。違うという意見もあります。皆さんはどうご覧になりますか?
静岡県洗田遺跡出土 土製模造鏡
松戸市栗山古墳群出土 形象埴輪
「松戸と徳川将軍の御鹿狩」展(2020年10月29日)
今年は新型コロナ騒ぎで予定がすっかり狂ってしまい、企画展は、内容に若干の変更を余儀なくされましたが、予定通り開催することができました。展覧会では、御鹿狩が松戸にとっていかに大きなイベントであったかということがよくわかります。御鹿狩については常設展示室でもコーナーを設けて紹介し、御鹿狩シアターで御鹿狩りがどのように行われたかを簡単に紹介していますが、御鹿狩をテーマにした展覧会は今回が初めてです。
それはさておき、江戸幕府は現在の松戸市・柏市・野田市・流山市・鎌ケ谷市・白井市・船橋市・印西市などにまたがる地域に小金牧という馬の牧場を設置しました。小金牧の周囲に広がる原野は小金原と呼ばれました。時が経つにつれて村や牧に野獣の被害が増えてきたこともあり、8代将軍吉宗(よしむね)が、小金原で害獣駆除と武芸鍛錬をする機会として始めたのが御鹿狩です。周辺の村々から集められた大勢の農民と大勢の武士が参加して1日で行われました。初めてのことでうまくいくかどうかわからなかったので、1725年の1回目は予行演習として行われ、翌年本番が行われました。その後、3回目は11代将軍家斉(いえなり)が1795年に、4回目は12代将軍家慶(いえよし)が1849年に行いました。
将軍は現在の松飛台に築かれた築山「御立場(おたつば)」から狩の様子を眺めました。獣たちは追い立て役の農民たちに御立場前の狩場に追い寄せられ、それを待ち構えた武士が仕留めました。当時、害獣として捕獲されたのは鹿と猪です。現在は松戸の周辺で鹿や猪を見ることはありませんが、1回目の御鹿狩りでは鹿が832頭、猪が5頭、2回目は鹿が470頭、猪が12頭捕らえられました。2年間で鹿が1302頭とは驚きですが、それに比べて猪の少なさが目立ちます。2回目から70年ほどたった3回目では鹿が130頭、猪が6頭と、鹿が激減しました。さらに54年後の4回目の時は、獲物が少ないことを見越して、あらかじめ捕らえておいて少し前に狩り場に放しています。鹿29頭、猪120頭でした。御鹿狩効果が現れていることもあるでしょうが、小金原の開発が進んで、獣たちの生活の場が失われていったことがうかがわれます。
御鹿狩は、普段はお目にかかれない将軍を間近に見られる機会ということで、大勢の見物人が沿道や狩り場の周辺に詰めかけました。その見物人を目当てに商売人もたくさん集まったことでしょう。御鹿狩は世間の関心も高かったでしょうから、その模様は瓦版や浮世絵版画でも紹介されています。驚くべきは、1897(明治30)年になっても御鹿狩の浮世絵版画が出版されていることです。
残念ながら御立場は取り壊されて現在残っていません。残っていれば間違いなく松戸市の史跡となっていたでしょう。
この機会に展覧会をご覧になって、松戸にとって御鹿狩がいかに大きな出来事であったかを感じていただければ幸いです。
寛政七年小金原御鹿狩絵図(松戸市指定文化財) 松戸市立博物館
「郷土玩具展」始まる(2020年6月12日)
緊急事態宣言の解除に伴い、待ちに待った館蔵資料展「郷土玩具-人と動物のかたち-」が6月2日からオープンしました。会期は当初の予定を1週間延長して6月21日までです。
今回の展示は、平成11年(1999)に杉山輝典様から寄贈をうけた、全国から集められた2,000点に及ぶ郷土玩具の中から、「天神人形」「さまざまな人のかたち」「十二支ほかの動物たち」「首人形」「さかなとくじら」「きじうま」「動かすおもちゃ」「姉様人形」というテーマで選んだ約400点を展示するものです。ずらりと並んだ作品群は、カラフルでバラエティーに富んでいて、見ていて楽しくなります。勤めて9年になりますが、当館の郷土玩具の資料を見るのは初めてで、感激しました。
今回のコロナ騒動では、疫病退散の妖怪「アマビエ」が大きな話題となっています。今回の展示には残念ながらアマビエはありませんが、栃木県宇都宮市には、「除災招福」の郷土玩具「黄ぶな」があり、こちらはタイミングよく展示することができました。
また、東京の郷土玩具「ずぼんぼ」のペーパークラフトもありますので、こちらでも楽しんでいただけます。
コロナ騒ぎが続き、毎日が憂うつになりがちですが、展示を見て楽しんでいただければ幸いです。
(2020年6月12日)
人形
黄ぶな
新型コロナウイルスの脅威(2020年5月17日)
新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっています。目に見えないウイルスに世界中の経済、社会、生活が脅かされています。今回の新型コロナウイルスは、ワクチンも治療薬も発見されていない上に感染力も強力で、あっという間に世界中に広がってしまいました。日本でもダイヤモンド・プリンセス号での新型コロナウイルスの集団感染に端を発し、瞬く間に全国に感染が広がってしまいました。4月7日に政府の緊急事態宣言が発令され、それをうけた市の方針で私は在宅勤務になってしまいました。というわけで今回は「自宅から」です。
昨年5月に新天皇が即位し、令和の時代が始まりました。新しい年を迎え、さあ東京オリンピック・パラリンピックだと期待で明けた年だったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大のため、開催が1年延期となってしまいました。しかし来年になってみないと本当に開催できるかどうかわからないのでまだ不安が残ります。
さらに、全国の博物館・美術館・動物園・水族館なども休館を余儀なくされました。当館も、1月12日に始まった館蔵資料展「小金城と根木内城」が会期半ばの3月1日で終了となってしまいました。1月19日の展示解説会は会場いっぱいの人で皆さんの関心が高いことがわかり、たくさんの人に見ていただけると予想できただけに残念でなりません。
4月25日に始まる予定だった館蔵資料展「郷土玩具」(~6/14)はいつから開催できるかわからず、このまま中止となってしまいかねません。楽しみにしておられた方も多かったのではないでしょうか。その後の展覧会やイベントも不透明な状況が続いています。今年度の行事予定のパンフレットを作ったのですが、中止や延期が相次ぎ、全く役に立ちそうにありません。こんな事態になるとはまったく予想できませんでした。新型コロナウイルス恐るべしです。
こんな混乱の中、4月から西村広経(にしむらひろつね)さんが新しく学芸員に採用されました。専門は考古(縄文時代)です。松戸には縄文時代の遺跡がたくさんありますので、大いに力を発揮して令和の時代の博物館を支えていってくれることを期待しています。
さて、5月14日に一部の県では緊急事態宣言が解除されましたが、千葉県はまだ継続中です。緊急事態宣言が予定通り5月末に解除されれば、6月から博物館を再開することができるかもしれません。そうすれば「郷土玩具」展は2週間ですが開催することができます。しかし当分の間は「3密(密閉・密集・密接)を避ける」ことが求められるでしょうから、展示、講演、講座などに人数制限が加えられることが考えられます。皆様にご不便をおかけすることが多いと思いますが、ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。
ワクチンや治療薬が開発されるまで、苦しい生活が続くと予想されますが、明るい未来を信じて頑張りましょう。今後とも博物館をよろしくお願いいたします。
「縄文貝塚 貝の花遺跡」展(2019年11月6日)
松戸市立博物館では現在、館蔵資料展「縄文貝塚 貝の花遺跡」展(11月24日まで)を開催しています。
貝の花遺跡は、広場を囲んで竪穴住居が立ち並ぶという縄文集落の姿を明らかにした調査として有名になり、後に高校の日本史の教科書にも取り上げられました。出土した土器や石器、骨角器などは常設展示でその一部が集落の模型とともに展示されています。しかし、貝の花遺跡の出土品をまとめて展示する機会は、意外なことにありませんでした。そこで今回は、出土品を多数展示するとともに、最近の研究成果や、貝の花遺跡が紹介された教科書なども展示して、貝の花遺跡に対する理解を深めていただくことにしました。
また、今回の展示に合わせて、博物館オリジナルのペーパークラフトを作りました。貝の花遺跡出土の土器をデザインしたもので、3種類あります。無料でお配りしていますので、ご自宅でお子さんと一緒に作って楽しんで下さい。
なお、この展示と同時に、隣の部屋で「eco生活事始め-考古資料から見た上手な資源の使い方-」展(11月24日まで)が開催されています。限りある資源を無駄にしないエコ生活が、すでに旧石器時代から行われていたことを、県内の遺跡の出土品から明らかにする展覧会です。この展覧会に、市内紙敷の中峠(なかびょう)遺跡から出土した石の矢じりが出品されています。小さいので見落とさないように注意してご覧ください。
貝の花遺跡出土 注口土器
ペーパークラフト 完成見本
「平成」から「令和」へ(2019年5月28日)
皆様ご承知の通り、5月1日に新しい天皇が即位され、年号が「令和」となりました。「平成」の時代が終わり、「令和」という時代が始まりました。そして世の中と同様、博物館にとっても、大きな変化の波が押し寄せているのです。
松戸市立博物館は平成5年に開館しましたので、昨年開館25周年を迎えました。記念特別展「ガンダーラ」は総入場者数8,959人という、有料の企画展としては最高の入場者数を数えました。博物館が市民の皆様に親しまれているからこそと言ってもいいでしょう。
親しまれてきた博物館ではありますが、喜ばしいことばかりではなく、実は問題も抱えています。その一つが学芸員の高齢化です。学芸員は専門職であるためほとんど異動がありません。開館時に在籍していた学芸員を第1世代とすれば、平成の博物館を支えてきたのはまさに第1世代の学芸員です。あと3年すると、その第1世代最後の2名が定年を迎えます。これから令和の時代の博物館をになっていくのは次の第2世代の学芸員ということになります。平成から令和への移行は、第1世代の学芸員から第2世代の学芸員への仕事の引き継ぎと重なるのです。現在、第2世代の学芸員は2名ですから、昨年までの7名の学芸員体制を維持するためには5名の学芸員を採用して、仕事を引き継がなければならないのです。
学芸員は、担当する分野の収蔵品の取り扱い方や展覧会の作り方などを覚えるのには数年の時間がかかるのが普通です。新規採用された学芸員には、第1世代の学芸員が在任中に、後任の学芸員への引き継ぎをしなければいけないのです。この引き継ぎがうまくいくかどうか、第1世代に残された責任は重いのです。
博物館は今、展示のリニューアルを目指しています。開館して25年を経過し、施設の老朽化も目立ってきています。第2世代の学芸員に期待されている課題もまた大きいのです。
第3回松戸市立博物館アワード作品展始まる(2018年12月4日)
2年前に始まった「松戸市立博物館アワード」は、おかげさまで順調に参加者を増やしてまいりました。今年はどうかなと思っていましたら、なんと642点もの作品が寄せられました。初年度が29校から自由研究部門156点、イラスト部門150点、合計306点だったのに、今年は46校から、自由研究部門292点、イラスト部門350点、合計642点と初年度の2倍を超える点数の応募がありました。しかも作品のレベルは確実に上がってきていると感じられました。審査を担当した先生方もうれしい悲鳴を上げておられました。その中から優秀作品を選び、授賞式が12月3日に行われました。受賞された皆さんは、「来年もチャレンジするぞ!」と意気込みを新たにしていました。そして4日から、イラスト部門は応募全作品、自由研究部門は佳作以上の作品を展示する作品展が12月16日まで開催されています。会場は企画展示室ですが、昨年までは半分のスペースで足りたのですが、今年は作品数が多く、全室を使うことになりました。子供たちの熱意と努力の結晶をぜひ見に来てください。
アワードは来年以降も続きます。まだ応募したことのない皆さんもぜひ力作を寄せて下さることを期待しています。
ガンダーラ展に思う(2018年11月15日)
今年の秋の展覧会は、市制施行75周年・松戸市立博物館開館25周年記念の「ガンダーラ-仏教文化の姿と形」です(11月25日まで)。新聞やNHKテレビでも紹介していただき、おかげさまで大勢の市民の皆様にご覧いただき、担当者をはじめ喜んでおります。土・日・祝日はもちろん、平日でも多くの方々がお見えになっています。これは私が館長になって7年目ですが、初めての経験です。
展覧会関連の講演会は大勢の方にお出でいただき、入場をお断りする回もあって、うれしい悲鳴を上げております。展示解説会にも大勢の方が展示会場にお出でになって、熱心に解説を聴いておられます。皆様の関心の高さがうかがわれます。
今回の展示では、当館所蔵のガンダーラ関係遺品を中心に展示した前半部分に続いて、仏教文化が日本に入ってきた様子を取り上げています。個人的には、長年見たいと思っていた京都上賀茂神社採集のガラス碗片、奈良県川原寺裏山遺跡の出土品、三重県鳥居古墳出土の押出仏などを実際に見ることが出来て感激しています。
また、ガンダーラの遺跡を紹介したビデオをエントランスホールで流しておりますのでお見逃しなく。これは20年前の開館5周年記念特別展「シルクロードとガンダーラ」のために現地に赴いて制作したビデオです。
図録も大変好評です。また、ガンダーラ関係のミュージアムグッズとして、ジグソーパズルや一筆箋もございます。
平成9年の開館5周年記念特別展「シルクロードとガンダーラ」の入場者数は7,144人、平成24年の館蔵資料展「ガンダーラ」の入場者数は3,690人でした。さて、今回はこの記録を超えられるでしょうか?楽しみです。
シルクロードを経由して伝わったガラス碗
大注目!幸田貝塚の縄文土器(2018年8月18日)
深鉢
台付き深鉢
片口付き深鉢
現在、東京国立博物館で開催されている特別展「縄文-1万年の美の鼓動」に、当館所蔵の幸田貝塚出土土器のうち12点(重要文化財)が出品されています。幸田貝塚の土器が一度に12点も貸し出されたのは初めてです。
幸田貝塚は幸田2丁目に位置し、昭和3年(1928年)に『日本石器時代遺物発見地名表』に掲載されて、その存在が学会に紹介されました。以来、戦後にかけて数回の小規模な発掘調査が行われてきました。昭和40年代に東京近郊の宅地開発が進み、幸田貝塚にも開発の手が入ることになりました。そこで、教育委員会による発掘調査が継続的に行われ、縄文時代の竪穴住居跡が150軒以上発見されて、縄文時代前期(6000~5000年前)を中心とする集落の存在が明らかになりました。遺跡は、現在、一部が公園として保存されています。
幸田貝塚からは土器・石器・骨器・装身具など多数の遺物が出土しましたが、そのうち226点が、平成6年(1994年)に国の重要文化財に指定されました。
うれしいことに、幸田貝塚の土器は、フランス・パリでの「縄文」展(1998年)、カナダ・モントリオールでの「日本」展(2006年)にも、縄文時代前期を代表する土器として計4点が出品されています。
今回の東京国立博物館の「縄文」展では、当館とはひと味違う展示で、様々な縄文で器面を飾られた土器を美しく見せています。お時間がありましたら一度ご覧ください。
初代館長・岩崎卓也先生のご逝去を悼む(2018年3月13日)
松戸市立博物館の初代館長・岩崎卓也先生が、病気療養中のところ、2月4日に逝去されました。行年88歳でした。
先生と松戸のかかわりは60年ほど前に遡ります。先生は昭和29年(1954年)3月に東京教育大学文学部史学科を卒業され、4月から史学科に勤務されていました。この年に、松戸市制10周年事業として松戸市史の編纂が始まりました。この事業に途中から加わったのが、先生と松戸との関わりの最初でした。先生は当時学生だった関根孝夫先生(2代館長)とともに精力的に資料を収集し、原稿を執筆しました。その努力の結果、『松戸市史 上巻』は7年後の昭和36年(1961年)に刊行されました。そして翌年、松戸市文化財保護条例が制定されると同時に文化財審議委員に任命されました。ちなみに、当時先生は常盤平団地に居を構えておられました。
文化財審議委員に任命されると同時に、宅地開発に伴う大谷口遺跡の発掘調査に関わり、昭和39年(1964年)からは、日本史の教科書にも掲載されるほど有名になった貝の花貝塚の発掘調査を調査委員として指導されました。その後も幸田貝塚、子和清水貝塚など市内の数多くの遺跡の発掘調査に関わっておられます。
市制施行50周年を迎えるに当たり、記念事業の1つとして博物館建設の話が持ち上がった時には立ち上げ準備段階から関わり、平成5年(1993年)の開館とともに初代館長に就任されました。
松戸市立博物館はシルクロード・ガンダーラ関係の遺品を所蔵していますが、それらをよりよく理解するためには現地を知らなければいけないということで、平成7年(1995年)からガンダーラ地域で日本隊による仏教遺跡の発掘調査が行われた際には、その調査に学芸員が参加して見識を深めることができるように道を開いてくださいました。その後、平成20年(2008)3月まで館長を務められ、長年の功績に対して名誉館長の称号を贈られました。
このように、60年余に渡って松戸の文化財や博物館のためにご尽力いただいたことに感謝いたしますとともに、先生のご冥福をお祈りいたします。
「本土寺と戦国の社会」展(2017年11月1日)
博物館では、現在、「本土寺と戦国の社会」展を開催しています(11月12日まで)。本土寺は「あじさい寺」とも呼ばれ、初夏のあじさい、秋の紅葉で市民の皆さんに親しまれていますが、中世に創建された日蓮宗の古刹として、多くの文化財を所蔵し、松戸市の歴史を知るだけでなく、戦国時代の歴史を知る上でも重要な位置を占めています。
今回は本土寺が展示の中心ということで、ふだんは人の少ない平日でも熱心にご覧になっている方が多く見られます。また、今回の展覧会は古文書が数多く展示されています。展示を長い時間ご覧になっている方が多いということですから、歴史に興味のある方が古文書の読み下し文や解説を熱心に読んでいらっしゃるということだろうと思います。図録(900円)の売り上げも好調だということで、市民の皆さんの関心の高さがうかがわれます。
今回の展示は本土寺様の多大なご協力無くしては実現しませんでした。これだけの文化財をまとめて拝見できる機会は少ないと思います。会期も残り少なくなりましたが、まだご覧になっていない方はこの機会にぜひご覧下さい。
夏らしくない夏休み(2017年8月22日)
底に穴をあけた土器(富山遺跡)
女子の埴輪(立出し遺跡)
今年の夏は、梅雨が明けても曇の日が多く、暑い夏はどこへ行ったという感じですね。現在、博物館では「発掘!発見!松戸の古墳時代」展を開催中です(9月10日まで)。
松戸市の古墳時代の様子は、平成27年に刊行した『松戸市史 上巻(改訂版)』(博物館で手に入ります)に詳しく述べられていますが、本を読むだけではわかりにくいと思います。今回の展示は、本に書かれていることを、遺跡の写真や実際に出土した土器や埴輪や鉄器を並べることによって、目で見て理解してもらおうという企画です。
古墳時代といえば、「古墳」を思い浮かべますが、松戸では古墳時代の初めには弥生時代からの方形周溝墓が造られ、古墳が造られるのはもう少し後になってからのようです。行人台遺跡から出土した渡来系遺物(鋳造鉄斧、多孔式甑)からは、朝鮮半島からやって来た人々が住んでいた可能性が考えられます。立出し遺跡第1地点から出土した人物・家・馬などの埴輪の見事な造形にも感心させられます。松戸といえば縄文時代がクローズアップされますが、古墳時代にも興味深い遺跡があるのです。
残り少ない夏休みですが、お子さんやお孫さんの夏休みの自由研究の材料が博物館にはいっぱいあります。博物館のネタで研究をまとめていただき、その成果をぜひ「博物館アワード」に応募してください。みなさんの力作を期待しています。
「東北の伝統こけし」展開催中(2017年5月23日)
こけし・遠刈田(とおがった)系
こけし・鳴子系
現在、博物館では「東北の伝統こけし」展を開催中です(6月11日まで)。
青森県津軽、岩手県南部、宮城県鳴子、山形県蔵王、福島県土湯をはじめ、東北の各地で作られている11のグループのこけしを300点ほど展示しています。これだけの数のこけしが一堂に集まると壮観です。どれも同じように見えるこけしですが、よく見ると地方地方の特徴が見て取れます。今のお子さんは違うかもしれませんが、昔は修学旅行に行くと、おみやげにこけしを買うというのが定番でした。
今回は会場で、展示したこけしの人気投票を行っています。投票に年令制限はありませんので、ぜひ皆様の清き1票をお願いします。どのこけしが1位になるのか、予想は当たるのか、ゴールに向けて激しいデッドヒートが期待されます。
会場にはこの展覧会オリジナルのスライドパズルもありますし、いつにもまして、しおり作りコーナーが大変な人気です。5月28日には担当学芸員による講演「木地師とこけし」も予定されています。さわやかな初夏のひと時、ご家族連れでぜひお出でください。
なお、この展覧会と同時に、松戸美術会の皆さんの作品展も、6月4日まで開かれています。あわせてご覧ください。
「板倉鼎・須美子展」が東京で開かれます(2017年4月19日)
現在、東京の目黒区美術館で「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」(6月4日まで)が開かれています。
この展覧会は、おととしの秋、当館で開催された「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」をもとに企画された展覧会です。松戸市教育委員会も特別協力という形で名前を連ねています。
板倉鼎・須美子夫妻は1926年に与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で結婚し、パリに留学して洋画を学びましたが、二人とも20代の若さで亡くなっています。短い生涯だったため、画壇にはほとんど名前を知られておりませんが、松戸にゆかりのある画家としてもっと多くの人に画業を知ってもらういい機会だと思います。
おととしの展覧会では、松戸にこんな素晴らしい画家がいたのかと感動される方がたくさんいらっしゃいました。もう一度二人の絵を見てみたいという方、おととしの展覧会を見逃したという方は、この機会にぜひご覧になることをお勧めします。4月29日には田中典子氏(美術館準備室長)による講演会も予定されています。
板倉鼎は埼玉県の生まれですが育ったのは松戸市です。その関係で松戸市は板倉夫妻の作品を多数所蔵していますが、市には展示施設がないためにふだんは見ることができません。早く展示施設ができることを期待しましょう。
「昔のくらし探検」とTVCMと(2017年3月1日)
蚊帳(かや)に入ってみる
唐箕(とうみ)を体験
新しい年が明けてもう2ヶ月がたってしまいました。春はもうすぐそこまで来ていると感じます。
さて、この時期の恒例になりました、学習資料展「昔のくらし探検」が今年も3月26日まで行われています。松戸市内はもちろん、柏市、流山市、市川市の小学校からも生徒さんが見学に訪れています。引率の先生たちも使ったことのないような、今では見られなくなった道具をさわったりして楽しく勉強しています。
また、3月19日(日曜)と26日(日曜)には、紙芝居や昔の子供の遊びを体験する催しが開かれますので、ご家族おそろいでお出で下さい。
さて、最近、某保険会社のTVCMで、俳優の加藤諒さんが縄文人になっていますが、もうご覧になりましたか?竪穴住居も出てくるこの撮影がどこで行われたか、お気づきになりましたでしょうか?実は、ちょっとわかりにくいのですが、博物館の「縄文の森」で行われたのです。これを機会に、博物館が全国に知られればいいなと思います。
第1回松戸市立博物館アワード作品展始まる(2016年12月6日)
博物館は、開館以来、皆様に親しまれる博物館を目指して館員一同努力してまいりましたが、若い人たちにもっと博物館に来てほしい、博物館に親しんでほしいという願いから、「松戸市立博物館アワード」を立ち上げることにいたしました。
市内外の小・中・高校生の皆さんに呼びかけ、「歴史」「松戸」という大きなテーマに、自由研究とイラストでチャレンジしていただきました。その結果、29校から、自由研究部門156点、イラスト部門150点もの応募がありました。どの作品にも努力と熱意が感じられ、全員に賞を差し上げたかったくらいです。この中から優秀作品を選び、授賞式が12月5日に行われました。そして6日から、イラスト部門は応募全作品、自由研究部門は受賞作品を展示する作品展が12月18日まで開催されています。子供たちの努力の結晶をぜひ見に来てください。
アワードは来年以降も続きます。来年はもっと多くの力作が寄せられることを期待しています。
「石斧と人」展の見どころ(2016年11月1日)
博物館では、現在、「石斧と人」展を開催しています(11月23日まで)。会場に入ると、いきなり日本最大、長さ60センチの石斧(重要文化財)が目に入ります。表面がきれいに磨かれていて、これだけなめらかに磨くのにどれだけ時間がかかったのだろうと、その苦労がしのばれます。この石斧の重さも、レプリカで体感できますので、ぜひご自分の手で実感してください。重いですよ!
この展覧会のもう一つの見どころは、市内河原塚遺跡から出土した、土器に内蔵された磨製石斧です。このような例は全国でも17例しか知られていません。なぜ土器の中に石斧を入れたのか、謎です。この謎を解いたら、皆さんも立派な考古学者です。
そのほか、最近まで石斧を使っていたニューギニアの人たちの生活を、使っていた道具と映像で紹介しています。昔、どのように石斧を使っていたかをさぐる手がかりになると思います。
ところで、あちこちで博物館の展示を見ていると、思いがけない発見をすることがあります。他の人は気がついていないかもしれないと思う時は一人でニコニコしています。今回の展示でも見つけました。写真をあげておきましたが、皆さんはこの土器に私が何を見つけたかわかりますか?それは人の顔です。本当?と思う人は実物を見に来てください。偶然とはいえ、その見事さに感心してしまいました。皆さんも自分だけの発見を探してみてください。
日本最大の石斧(左) 秋田県上掵遺跡
人の顔に見える土器 府中市武蔵台遺跡
着物の思い出(2016年8月23日)
張り板
くけ台
博物館では、現在、「くらしのなかの着物」展を開催しています(9月4日まで)。
現在では着物を着る機会が非常に少なくなってしまいました。着物を見かけるのは、正月、七五三、祭礼、成人式、大学の卒業式、結婚式、葬式など、主に冠婚葬祭の機会だけでしょう。着物は身近な存在ではなくなってしまいました。着物を着て生活していたのはずっと昔だと感じます。戦後すぐの「団塊の世代」の私にとっても、普段着は洋服でした。ふだん、着物で過ごしているのはお相撲さんくらいでしょうか。
私が育ったのは神奈川県厚木市の住宅でしたが、庭に張り板を出してのり付けした布をピンと張っていたこと、くけ台で母が裁縫をしていたこと、赤ん坊のいる家ではおしめがたくさん干してあったことなどを思い出します。また、冬は足袋を履いていたこと、夏は下駄で遊び回ったこと、小学校の運動会は、運動靴ではなく、白足袋を履いたことなどを思い出しました。
皆さんは着物にどんな思い出がありますか?展示された着物を見ながら、昔を思い出してみてはいかがでしょうか。
戦国時代の貴重な資料「西原文書」を展示しました(2016年6月7日)
北条氏康書状 永禄7年(1564年)1月4日
新しい年度が始まりましたが、熊本では地震による大きな被害が出ています。熊本城をはじめとする文化財も大きな被害を蒙りました。私たちも備えを怠ってはならないと感じます。被災された皆様の一日も早い復興をお祈り申し上げます。
今年度最初の展覧会、館蔵資料展「幸田貝塚の世界」がまもなく終了します。ご存じのように、幸田貝塚の出土品は、その一部が、松戸市で唯一、国の重要文化財に指定されています。今回の展示では、お子様にも楽しんで頂けるような展示を目指しましたので、まだご覧になっていらっしゃらない方はぜひ、お子様連れでご覧下さい。ジグソーパズル、縄文衣装体験、しおり作りも楽しめます。
ミニ写真展「駅前の風景 新松戸・北小金駅編」(6月30日まで)もお見逃し無く!昔はこんなだったのかと、今では想像も出来ないような風景に驚くばかりです。
さて、このたび、博物館は松戸にとってたいへん重要な「西原文書」10点を入手いたしました。戦国時代の松戸を知る貴重な資料ですので、さっそく常設展示室に展示いたしました。写真の文書は、北条氏康が秩父氏と西原氏に出兵を要請した文書です。氏康は、NHKの大河ドラマ「真田丸」で高島政伸が演じている北条氏政のお父さんです。6月12日には、この西原文書について解説する講演会(博物館講堂、入場無料)が開催されますので、ぜひ足をお運び下さい。
3月の博物館(2016年3月8日)
3月に入り、暖かい日もあって春が近いことが実感されます。もうすぐ桜のつぼみも色づいてくることでしょう。
さて、博物館の展示は室内だけではありません。野外でも縄文時代の竪穴住居を3棟復元して展示しています。今、そのうちの一番大きな竪穴住居の屋根が縞模様になっています。なかなかしゃれていると思いませんか?この光景が見られるのも今の内です。なんでこんな模様が出来ているのか、どうぞご自分の目で確かめてみてください。
現在、学習資料展「昔のくらし探検」(3月27日まで)が好評開催中です。炊飯器ではなくかまどでご飯を炊いたこと、夏は蚊帳をつって寝たこと、水道ではなく井戸から水をくんだこと、洗濯機ではなくたらいと洗濯板で洗濯をしたことなどなど、昔と今の生活の違いを体感してください。
なお、展覧会の期間中、3月20日(日曜)と27日(日曜)には、紙芝居の口演と昔の遊び(お手玉、けん玉、こまなど)を楽しむイベントも開催します。ぜひご家族でお楽しみ下さい。
3月13日(日曜)には富澤学芸員による講演会「非文字資料とは何か?」(申込不要)がございます。昨年、博物館に入った富澤学芸員による初めての講演会です。ご期待下さい。
ごあいさつ(2016年2月16日)
松戸市立博物館は、市制施行50周年を記念して、平成5年(1993)4月29日に「21世紀の森と広場」の一角にオープンしました。早いもので、今年で23年になります。
開館以来、松戸市民をはじめ多くの方においでいただき、平成26年には来館者がのべ200万人に達しました。
このように皆様に親しまれてきた博物館ですが、博物館も20年を過ぎると、施設の老朽化が目立つようになりました。照明も蛍光灯からLEDに変わろうとしています。博物館も時代に取り残されないように、常に新陳代謝を心がけなければいけません。博物館が「博物館入り」になってはシャレにもなりません。これからの大きな課題です。
さて、博物館では現在、学習資料展「昔のくらし探検」(3月27日まで)を開催中です。平日は市内・市外の小学生が社会科の授業の一環として訪れて、楽しく学んでいます。また、デイサービスをはじめ高齢者の方々も、昔を思い出して懐かしくご覧になっていらっしゃいます。今から80年ほど前、人々がどんな暮らしをしていたのか、皆さんも来て、見て、さわって、体験してみませんか?
これからも博物館をよろしくお願いいたします。