企画展「将軍とプリンス 敗者の明治維新」
更新日:2015年10月18日
開催期間
前期 平成27年10月10日(土曜)から11月23日(祝日)まで
後期 平成27年11月26日(木曜)から平成28年1月11日(祝日)まで
※平成27年11月24日(火曜)、25日(水曜)は展示替えのため休館となります。なお、祝日の関係で24日は戸定邸も休館となります。
企画展の趣旨
徳川慶喜と昭武2人の政治、文化における軌跡を「敗者」という視点から取り上げます。権力闘争という観点のみから見れば慶喜や昭武は敗者になりますが、時代の大局的な動向を洞察し、社会的混乱を避けるために権力移譲を行ったことは単なる「敗者」という言葉で片付けられるものではありません。彼らが背負わなければならなかった役割について考えます。
また、明治維新という断絶の前後を比較対照することにより浮かび上がる彼らの人間像についても紹介します。当館に収蔵される徳川慶喜家及び松戸徳川家伝来資料、さらに当館収集資料を総合的に検討し、新たな歴史像を提示します。
徳川慶喜は維新の時、一時は死罪を宣告されました。それからおよそ34年後の明治35年6月3日、国家への偉大な勲功が認められ、公爵を授けられました。維新の時の行動に対する評価は一変したのです。彼にとって、この時まで維新は終わりませんでした。ここに至るドラマも基本資料で辿ります。
為政者の足跡
徳川御三家に生まれ、為政者となるべく育てられた慶喜、昭武兄弟の足跡を辿ります。
政権奉帰と帰国
徳川慶喜は大政奉還を行った、というのが一般的な歴史の記述でしょう。しかし、この時に慶喜が朝廷に提出した文書に「大政奉還」という文字はありません。彼は「政権を朝廷ニ奉帰」と書いていました。大政奉還風に縮めれば「政権奉帰」となります。勝者は歴史を記述する時に、統治機構を意味する政権ではなく天皇の行う政治を意味する大政という言葉を選択したのです。幕府の瓦解によって、弟昭武はパリからの帰国を余儀なくされました。そのドラマの一端も紹介します。
沈黙の造形 敗者が残した文化財
政治と距離を置いたが故に、残された造形。慶喜、昭武は為政者として育てられる中で高い文化的素養を身につけていました。維新によって、その政治的側面が剥がれ落ちたため、それと密接不可分であった文化的素養と営為が鮮明に残されました。これまで私人の趣味としてとらえられていた造形に、新しい文化的意味を与えます。明治初期に慶喜が描いた油絵、昭武が心血を注いで創り上げた戸定邸と庭園は文化史上重要な位置を占めています。江戸から明治への時代の変化が背景となって生み出された造形物の意味を味わいます。
終わらぬ維新 皇室と徳川家
2013年に維新後の慶喜の足跡を考える上での重要資料を初公開しました。この章では、この資料の分析を進め、天皇と慶喜にとっては明治維新は終結していなかったことを明らかにしていきます。