このページの先頭です
サイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

企画展「1867年万博使節団の明治~サムライたちの選択」【2019年会期終了】

更新日:2019年12月24日

会期: 令和1年10月12日(土曜)から12月22日(日曜) 本展覧会は終了しました。

展示概要

 明治維新という歴史の大転換によって、日本の行政権は江戸幕府から明治政府へと移りました。1867年、徳川昭武の渡欧に際し随行した日本政府特別使節団員は、幕府という後ろ盾を失った明治時代をどのように生きたのでしょうか。徳川昭武の傅育役(ふいくやく)を務めた山高信離(やまたか のぶあきら)、滞欧中側近くに仕えた渋沢栄一ほか、使節団員の明治時代についてひもとく資料を紹介します。

 1867年、徳川昭武は、フランス皇帝ナポレオン3世に日本の装束を身に着けた写真を求められた。 掲載の写真は、昭武がこの求めに応じて写真家ディズデリのスタジオ(パリ市内)で撮影する際、使節団員も撮影したものであると考えられる。 この3人は、明治維新後、三者三様の道を選んだ。

右写真

上段:向山一履(むこうやま かずふみ) 
下段左:山高信離(やまたか のぶあきら) 
下段中・右:服部潤次郎(はっとり じゅんじろう)

展覧会構成

出会い―慶喜に選ばれた才能

 慶応3年1月、「最後の将軍」徳川慶喜は、弟・昭武に、将軍名代としてパリで開催される万国博覧会に参加するよう命じました。派遣に先立って慶喜は、将軍家を構成する家のひとつ、清水家を昭武に相続させ、徳川姓と、将軍になれる身分とを与えました。
 慶応3年1月11日、昭武と共に20名の武士たちが日本を出発しました。彼らは慶喜が選んだ万博使節団員です。使節団は、外交を担当する人々(=外国方。責任者・向山一履)と、昭武の世話をする人々(責任者・山高信離)に分かれていました。

華やかな夢-パリ万博と各国巡歴

 幕府が初めて公式に参加したパリ万国博覧会は、国際社会への本格的デビューであり、同時に思惑が入り乱れる外交の最前線でもありました。日本の出品物は、ヨーロッパの人々に強い印象を与え、ジャポニスム(=日本趣味)の契機にもなりました。万博の主要行事終了後、昭武一行は、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを巡歴し、各国の元首に将軍・慶喜からの国書を奉呈しています。
 使節団員たちは、ヨーロッパをどのように見たのでしょうか。

緊迫-幕府瓦解と帰国

 未来の日本の指導者となるべく、慶喜は昭武に留学を命じていました。しかし、留学生活は前途多難でした。昭武の傅役(教育責任者)の山高信離は、欧米への反発の強い水戸藩士たちの仲介を将軍・慶喜から任されていましたが、彼らの多くは環境になじめず帰国してしまいます。また山高自身も、フランス側の教育責任者・ヴィレットと対立し、傅役を解任されました。
 解任騒動の直後、日本から慶喜の謹慎、江戸城無血開城の知らせが届きました。昭武一行は、次々に届く書状から国内情勢を分析し、明治新政府からの命令を受けて帰国を決意したのです。

選択―維新後、それぞれの生き方

 帰国後、幕臣たちは静岡藩主となった徳川宗家に、水戸藩士たちは水戸藩に引き続き仕えました。しかし、廃藩置県後の生き方はさまざまです。
 旧幕臣として再び仕官せず市井に生きた向山、民間で能力を発揮した渋沢・高松がいる一方、山高・田邉たちのように明治政府の官僚となった人物も少なくありません。水戸藩士だった服部・菊池達は、華族となった水戸徳川家の職員として仕えました。

エピローグ―続く交流、つながり

 昭武と使節団、使節団員同士の交流は明治時代も続きました。使節団員たちは、しばしば戸定邸に住む昭武を訪ねています。高松凌雲は、主治医として昭武と家族を見守り、山内勝明(文次郎)は、昭武とフランスの交流をその語学力で支えました。渋沢栄一は、慶喜も交えての交流がありました。また、渋沢は、渡仏時、昭武の代理としてヴィレット将軍に面会、30年ぶりの再会を果たしています。
 昭武は病気で入院した際、自身の病気が山高信離の命を奪った病気と同じではないかと不安がっていました。昭武の主治医・高松凌雲は、医師になっていた山高の息子に病状を説明させ、昭武を勇気づけています。1867年に始まった交流は、世代を超えて続いたのです。
※展示構成、展示内容は、資料の状態をみて変更する可能性があります。
※資料を光による劣化から守るため、展示室内は照明が暗く設定されています。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

本文ここまで


以下フッターです。