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特別展1「プリンス・トクガワ―新時代への布石」 【6月13日で終了しました】

更新日:2021年6月13日

 徳川昭武が受けた教育、渋沢栄一が影響を受けた思想をご紹介

展覧会概要

  令和3年大河ドラマの主人公・渋沢栄一は徳川昭武ゆかりの人物です。
 昭武の兄・慶喜は江戸幕府最後の将軍となり、昭武と渋沢は幕府の終焉をパリで知らされることになりました。
 この3人は水戸藩9代藩主・徳川斉昭が推進した水戸徳川家独自の学問(水戸学)から大きな影響を受けています。
 斉昭の教育が日本の未来を動かす力になったともいえるでしょう。
 収蔵品や初公開資料を通じて幕末の水戸藩の情勢、水戸徳川家の教育をご紹介します。

展示詳細

第1章 慶喜と昭武―日本を背負った兄弟

 後に江戸幕府15代将軍となる徳川慶喜は、大塩平八郎の乱が起きた天保8(1837)年、水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれました。1867年のパリ万博へ派遣され「プリンス・トクガワ」と呼ばれた弟・昭武は、斉昭の18男として嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航した年に生まれました。二人とも幕府の体制を大きく揺さぶる事件が起きた年に生まれています。 

 慶喜と昭武は、母親が異なるうえ16歳年が離れていました。しかし、慶喜は父・斉昭に、昭武は兄・慶喜にその才覚を見出され、引き立てられていきます。慶応3(1867)年には、慶喜は将軍として、昭武は将軍名代として、それぞれ内政と外交の最前線に立って日本を背負うことになるのです。

第2章 水戸学 父・斉昭の教育―兄弟を育てた思想

 水戸徳川家9代藩主・徳川斉昭は、藩政の改革に積極的に取り組み、藩の学校である弘道館を創設して文武を奨励しました。「弘道館記」には尊王攘夷思想が表されています。

 斉昭は、息子たちに四書五経や武芸などの基本をしっかり学ばせ、ひとりひとりの個性をよく見ていました。特に慶喜の資質を高く評価しますが、きちんと教育しなくてはいけないとも考えていたようです。一方、8歳で父・斉昭を亡くした昭武の資質を見抜いたのは、兄・慶喜でした。御所を守る要職「禁裏御守衛総督」を務める慶喜を支えるため、昭武は満10歳で軍勢を率いて京都へ向かいます。兄弟は、禁門の変という困難を共に乗り越え、お互いを知り、絆を深めていきました。

第3章 慶喜の将軍就任と改革―渋沢栄一登場

 渋沢栄一は、天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。藍玉の行商も手がける裕福な農家の長男でしたが、青年時代には親戚にあたる尾高惇忠の教えを受けて「尊王攘夷」思想の下に倒幕運動に参加するなど、その行動力、才能は家業の枠にはおさまりませんでした。

 一方、徳川慶喜は10歳の頃、「御三卿」のひとつ、一橋徳川家へ養子に入ります。慶喜本人は父・斉昭が政治の表舞台から追われるなどの政変もあり、順風満帆とはいかない中、家臣・平岡円四郎の勧めによって文久3(1863)年、渋沢栄一が一橋徳川家へ仕官することになりました。

 慶応2(1866)年、慶喜が第15代将軍となり、渋沢も幕臣になりました。29歳の新将軍は、自ら幕府軍の改革に乗り出すとともに、打診されていた万国博覧会への参加を決定。幕府はついに海外へと視野を広げたのです。

第4章 いざ、万国博覧会へ

 日本は初参加となる世界の表舞台、万国博覧会。万国博覧会とは、どういった催しなのでしょう。

 万国博覧会は、1851年のロンドン万国博覧会(The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations-すべての国の産業製品の大展示会)が第1回とされています。原題が示している通り、世界中の産業製品を一堂に集めて公開する場として数年に一度開かれるもので、1867年のパリ万博は第5回にあたります。自国産業の最新成果を発表し、国力をアピールする目的がありました。

  日本も将軍が招待を受けていましたが、国内情勢や安全面が問題視されたため、将軍の弟である昭武が名代(=代理)に選ばれました。渋沢も、仕官以降、その才覚が高く評価され、昭武の側近くでサポートする係としての同行が決まりました。幕府は、商人の力も借りながらパリ万博への出品物をそろえ、ついに日本は自ら世界へ出航したのです。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館

千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

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