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矢切地域の歴史

更新日:2013年11月25日

歴史


矢切地域の地図

 悠々と流れる江戸川や広大な耕地、帯状に広がる緑の斜面林が目をひく地域です。
川面を渡る「矢切の渡し」は、江戸時代の初期にすでに農民渡船として使われていました。現在では、観光渡船に姿を変えて多くの人々を楽しませています。
台地上の西蓮寺には、伊藤左千夫の小説、「野菊の墓」を記念する文学碑が建てられています。
この地はかつて、北条氏・里見氏の国府台合戦の主戦場となり、両軍合わせて一万余の戦死者がでた激戦地でした。

第二次国府台合戦

 永禄七年(1564年)一月の合戦で、北条氏康と里見義弘(義堯(よしたか)の子)の戦いです。北条軍は、江戸川柴又、小岩側に江戸城代家老遠山丹波守直景(なおかげ)と葛西の富永三郎右衛門尉(うえもんのじょう)を先陣として着陣させ、高城(たね)(とき)軍も北条方に加勢し、下矢切大堀(矢切神社付近)に布陣しました。一方の里見軍は、八千余の軍兵が矢切側の台地上に布陣しました。
遠山、富永等は、大将北条氏康の到着を待たず里見軍へ攻め寄せ、両軍は今の矢切の渡しから西連寺付近で激突しますが、北条方が敗退し遠山、富永は討死しました。
しかし、北条軍は二手に分かれて夜襲をかけ、油断している国府台本陣の里見軍を急襲しました。結局、里見方は打ちのめされ北条軍が勝利をおさめましたが、この合戦で両軍合わせて一万余の戦死者がでました。

大坂

 西蓮寺と野菊苑の間の坂道は、「大坂」と呼ばれ、遠山丹波守直景(なおかげ)・富永三郎右衛門尉(うえもんのじょう)が討ち死にした国府台合戦の激戦地だったと伝えられています。

 市川市の里見公園には、国府台城の城郭遺構(じょうかくいこう)が現存しています。永禄七年(1564年)1月8日の明け方、寝込みを襲われた里見郡は敗北し、里見広次・正木内膳らをはじめ多くの犠牲者を出しました。公園内には、江戸時代に作られた里見軍将士慰霊の供養塔があります。

矢切神社

 当時、矢切の民家は江戸川沿岸にありましたが、宝永元年(1704年)6月の長雨により、江戸川が大洪水を起こし多数の死者を出しました。そのため、村民は、災害から逃れるように台地に移住し、京都東山より稲荷を勧請して「稲荷五社大明神」を建立しました。祭神は、倉稲魂命(うかのみたま)で、食物・稲などの穀物を司る神です。
今日では、矢切神社と名を改め、社殿に向かって右側には、菅原道真を祀った天満宮の小社があります。

庚申塚

 「本土寺過去帳」によると、室町時代にこの地を「ヤキレ」と記していることから、当地形の「谷切れ」に「矢切」の字を使ったと考えられます。しかし、この矢切が北条氏里見氏の国府台合戦の主戦場となったことから、俗説を生んだと思われます。

【合戦の戦没者は一万余を数えました。家は焼かれ田畑は荒らされ女・子供・年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され、一家は離散この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきた】と碑に記されています。

西蓮寺と野菊の墓文学碑

 下矢切の崖上に真言宗豊山派の八幡山西蓮寺があります。本尊は、阿弥陀如来で、国分山国分寺の末寺、元和七年(1621年)の創建と伝えられています。
境内には、明治39年の雑誌「ホトトギス」に掲載された伊藤左千夫の小説で、矢切を舞台とした「野菊の墓」を記念する文学碑が建てられています。

矢切の渡し

「矢切の渡し」は、江戸時代初期にはすでに農民渡船として使われていました。
この渡しは、関所とは異なり、農民が対岸の耕作地に通うために特別に許可されたものでした。今日では、観光渡船として下矢切と葛飾柴又の間を手漕ぎの船で往復しています。

お問い合わせ

松戸市

千葉県松戸市根本387番地の5
電話番号:047-366-1111 FAX:047-363-3200

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