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1867年パリ万博150周年記念展 第2期「写真と万博」

更新日:2017年7月14日

第2期 写真と万博

会期 7月15日(土曜)~9月24日(日曜)

 パリ万博では水圧式エレベーターや巨大な大砲など、参加国が国家の威信をかけて産業技術の粋を競いました。同時に、文化の面では音楽の展示が新たに加わりました。楽器として出品されたサクソフォンは賞を獲得し、その地位を確立してゆきます。日々コンサートも開催され、ヨハン・シュトラウス2世の名曲「美しき青きドナウ」もこの万博を契機に広まりました。万博は産業分野のみならず文化面でも大きな足跡を残したのです。第2期では、写真によって、万博の姿に迫ります。普及期を迎えていた写真にとって、世紀の一大イベントは格好の撮影対象でした。フランスに保存されていた写真の複写のほか当館所蔵の徳川昭武一行の肖像写真なども展示し、写真と万博との関係に迫ります。


パリ市歴史図書館 所蔵

展覧会構成

0. プロローグ 写真と万博

 1867年のパリ万国博覧会とは、いったい何だったのでしょうか?
 主催国フランスにとっては、皇帝の威信が五大陸に及んだ国家行事であり、参加国が産業技術を競い、同時に国際文化交流が行われた祭典でもありました。
 将軍の名代として海を渡った徳川昭武にとっては、国際舞台へのデビューであり、幕府の存在と権威を示す外交の場でした。わが国からは薩摩・佐賀の両藩も参加しましたが、薩摩藩は幕府の統治に疑問を投ずる外交宣伝を行いました。維新前夜の対立は万博会場でも繰り広げられたのです。
 一方で、日本の出品物は日本趣味と呼ばれる流行を欧米に起こし「ジャポニスム」のきっかけになりました。政治、経済、文化の面から、パリ万博はまさに世紀の一大イベントだったのです。
 万博を考える上で注目すべきは、公式記録に写真が使われ、情報が正確に記録された点です。写真黎明期の19世紀中頃に撮影された写真は当時を知るための基本資料であり、貴重な文化遺産でもあります。本展覧会では、貴重なオリジナルプリント(当時、原版から直接焼き付けられた印画紙)と現代の複製写真を合わせてご紹介しながら、万博についてひもときます。
 

1. 写真は万博をどのようにとらえたのか

 1866~67年当時、万博の記録写真に関して公的な立場にあったのが、写真家ピエール・プティです。そして国家事業である万博を記録するために、ビッソン兄弟、ブラウンといった優秀な写真家たちが会場や展示の撮影に協力しました。彼らによる写真は単なる記録にとどまらず、当時のカメラの性能や撮影技術の到達点を示す成果でもあり、文化遺産とも位置づけられるでしょう。
 そしてまた、40ヘクタール以上の広さを誇る万博会場シャン・ド・マルス(陸軍練兵場。現在は公園として整備され、エッフェル塔が建っている)に建設されたメイン会場(パレ)や各国のパヴィリオンの撮影は、ナダールが考案した気球による空中撮影で行なわれました。

2. 史上最大のコンテスト 世界を変える万国博覧会

 万博では5万以上の出品者が展示した膨大な品物に対し、銅、銀、金の各メダルと、最高賞には大型の金メダル(グラン・プリ)が与えられました。日本は初参加ながら全体で64個しかないグラン・プリメダルを手にする栄光に輝きます。褒賞授与式には皇帝ナポレオン3世と皇后ウージェニー、各国の王侯貴族らと共に昭武も参列しました。
 このパリ万博では、産業化により福祉の向上を目指す「サン・シモン主義」の下、機械ギャラリーが最大の面積を占めました。賞を獲得した機械や工芸品は、その後商品化されて普及していきます。エレベーターや織機などの大型機械、サクソフォンなどの楽器もこの万博がきっかけで世界に広まりました。商品や情報、人々が各国から集まる万博は、世界を変えるほどの影響力があったのです。

3. 万博の遺産 現代へと続くもの

 当時の人々はパリ万博をどのように見ていたのでしょうか。
 万博は国家事業であると同時に、娯楽イベントでもありました。来場者が会場や展示を見て回ることで、世界各国の産業や文化に触れ、体系的に学べるという仕組みです。異国情緒が好評を博した日本のパヴィリオンでは着物姿の芸者が対応していました。「国際サークル」というホールでは連日、民族音楽やダンスショーなどが上演されるなか、ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」が管弦楽編成で初演されました。記録写真からは、万博会場内に植物園や洞窟の中をイメージした水族館まであったことがわかります。
 現代の万博でも重視される視覚体験の工夫や飲食、イベントの要素を備えた1867年のパリ万博は、その後開催された万博のモデルケースになりました。

4. エピローグ:万博が見せた夢

 パリ万博と渡欧は、昭武にとって強く記憶に残る出来事でした。パリ滞在中に幕府は倒れ、彼の人生は大きく変わりました。
 ナポレオン3世とその家族や異国で会った人達との交流、異文化体験、フランス語での学習など、10代での海外経験は、明治以降の彼の人生に大きな影響を与えました。
 明治時代になると、身分の高さゆえに江戸時代には国外へ出ることのなかった旧大名・皇族が続々と海外渡航するようになりました。
 失意の帰国から8年、昭武も23歳から27歳にかけて二度目のフランス留学を果たします。留学先で昭武は、彼に続く徳川家の若い世代にさまざまな支援を行っています。
 プリンス・トクガワ-彼の存在は近代日本における国際人の先駆けだといえるでしょう。 

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