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戸定歴史館 TOJO MUSEUM OF HISTORY
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将軍のフォトグラフィー -展覧会ノート-

更新日:2013年11月25日

戸定歴史館刊行図録より

1.はじめに

 徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜は天保8年(1837年)に生れ、大正2年(1913年)に亡くなっている。将軍となったのが30才(1)。大政奉還から明治維新を経て、上野寛永寺に謹慎したのが32才の時である。考えてみれば、彼は維新後に随分と長い時を生きている。
 彼は写真との関わりが深い。幕末期には、最高権力者としての将軍のポートレイトを残し、維新後は、初期のアマチュアカメラマンとして、精力的に明治という時代を撮影した。幕末から明治にかけて、大名・旧大名層を写真の有力な受容層と捉らえると、将軍職を経てその時代を生き抜き、積極的に写真と関わり続けた彼は、その一つの典型と位置付けられるだろう。今回の展覧会では、写真という切り口から徳川慶喜について取り上げ、あわせて徳川昭武らの彼の周辺の人々との写真を巡る交流を展観する。ここでは、展覧会のノートとして、準備の段階で知り得た事を記録しておきたい。


1 数え年による。

2.大名層と写真

 わが国の写真史の流れを考える時、下岡蓮杖や上野彦馬らのパイオニアとなった職業写真家の人々の活躍ともに、写真に対する最初の受容層を形成した大名層と写真との関わりに対する目配りを忘れるわけにはいかないだろう。
 幕末期、わが国への写真術の移入は、蘭学・洋学などを通じての西洋新知識の導入という潮流の中で捉らえられる。その推進の母体となったのは、幕府や各藩の公的な研究機関であった。黎明期の写真術研究は、公のものとしての性格を有していたが、その一方で、初めて写真というものに接した大名たちに、個人的な好奇心をも芽生えさせたように推測される。安政4年(1857年)、日本人撮影の現存最古のダゲレオタイプ(銀板写真)(2)が撮影された。薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)のポートレイトである。斉彬自らがモデルを務めていることからは、彼の写真に対する個人的な関心と、それへの積極的な参入の意識が読み取れる。後の多くの人々を魅了したように、大名層の人々も写真のもたらす画像の魅力からは自由でなかったと考えるのが自然だろう。写真の黎明期、公のものとしての写真の性格と多額の費用を要するという制約から、わが国の写真術は、大名と深い関わりを持って始まった。島津斉彬に続く大名たちも公の要請と個人的な関心が混在する中で、写真術と関わってゆくのである。時代がダゲレオタイプから湿板写真の時代へと移っても、相変わらず彼等は有力な写真の受容層であった。最近発表された岩下哲典氏の研究(3)によると、尾張藩主徳川慶勝は自ら撮影した、あるいは整理した相当数の湿板写真を残している。そこには、名古屋城、広島城、尾張藩の下屋敷であった戸山邸などが写し取られており、古いものは、元治元年(1864年)にまで遡ることが確認されている。また、同時に明らかにされた慶勝が関わった写真術関係史料は、彼の写真に対する打ち込み様を窺わせるのに充分な内容となっている。
 幕末期、写真師を抱え入れ、あるいはカメラの前に立ち、あるいは徳川慶勝の様に自ら撮影を行うなどして、写真と関わりをもった大名は少なくない。そして、明治という時代になって、彼等の政治的役割が失われ、公的な立場が消滅しても、私としての彼等は写真に対する興味を持ち続け、初期のアマチュアカメラマンとなってゆくのである。
 この様な大名層と写真の関わりの文脈の上に、次では江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜と写真との関わりについて見て行きたい。


2 フランス人のダゲールによって1839年に発表された写真技法。銀板もしくは厚く銀メッキをした銅版上に画像が形成される。長時間の露光を要する事、一回の撮影で一枚の写真しか得られない事などからやがて湿板写真へ移行していった。
3 岩下哲典「徳川慶勝の写真研究と撮影写真(上)」(徳川林政史研究所『研究紀要』第25号、1991年3月)及び「徳川慶勝の写真研究と撮影写真(下)」(徳川林政史研究所『研究紀要』第26号、1992年3月)。

3.徳川慶喜と写真 -一橋徳川家時代-

 徳川慶喜は水戸徳川家に生れた。九代藩主徳川斉昭(なりあき)の七男である。彼は、幼い時からその聡明さを謳われ、将来を嘱望されていた。長男ではない彼は、どこかの大名家の養子に行くのが既定のコースであるが、弘化4年(1847年)、数えで言うと11才の時、一橋徳川家に養子に入ることになる。尾張、紀伊の御三家からそれとなく養子の打診があったときも乗り気でなかった斉昭が、彼を御三卿(ゴサンキョウ)のひとつ一橋徳川家に養子に出す気になったのは、そこに将軍への可能性を見たからだと言う(4)。彼と写真との関わりは、一橋徳川家当主時代から始まるのである。

 慶喜が一橋徳川家に養子に入った翌々年の嘉永2年(1849年)から3年にかけて、斉昭は島津斉彬と当時印影鏡と呼ばれていたダゲレオタイプについての書簡を交わしている(5)。この他にも、写真についての事跡が伝えられるが(6)、そうすると可能性としては、慶喜もかなり早い時点から写真と関係していた可能性が考えられる。しかし、残念ながら現在の時点では判断の材料となる具体的な資料はない(7)。彼と写真との関係がはっきりしてくるのは、元治元年(1864年)から慶応2年(1866年)の間の禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)時代(8)の事である。徳川家に伝わる彼の肖像を集めた写真アルバム(9)には、この時期のポートレイトが二枚載せられていjる。今日、目にする事の出来るもっとも古い慶喜の写真である(10)。一枚は、絨毯の上に紋付を着た慶喜が物思いに耽ける姿で、左肘を机に軽くもたれかけ、右肘をついてキセルをくわえている(参考図1)。写真の鑑賞者に読まれる事を意識してか、画面左の箱には資治通鑑の文字が置かれている。皇帝の政治の参考にするために編まれた資治通鑑。その書物を前してもの思いに耽ける自らの姿を演出したこの写真からは、為政者としての彼の自己認識が窺われて面白い。もう一枚は、羽織袴姿で絨毯の上に座る姿である(参考図2)。先程の一枚と較べると、画面右の鹿角の刀架けと刀は共通しているが、画面左には二挺のライフル銃が置かれている。左端のものはウィンチェスター銃、その右がスプリングフィールド銃もしくはスペンサー銃かと思われる。いずれもアメリカ製である。この写真が写される少し前の事になるが、安政4年(1857年)、慶喜は幕府から秘蔵のライフル銃を借用、拝見している(11)。これは、島津斉彬の請により、阿部正弘に説いて島津斉彬に貸し下げるためだと思われる(12)。西洋世界からもたらされた新知識の産物をいたずらに秘するばかりの幕府を説き、その公開・利用を図った慶喜であれば、彼の脇にライフルが写し取られているのも頷けようし、もしや、幕府秘蔵のライフル銃とは写真のライフル銃やもしれぬと、想像してみたくもなる。

 文久2年(1862年)末の上京から鳥羽伏見の戦いの後、慶応4年(1868年)1月に江戸へ帰るまで、慶喜は京都と大坂にいた。政局の中心が京都にあって、そこを動けなかったからである。この時期には、かつての幕府のやり方では収集がつかない状況が生じていた。手短に言うと、幕府が幕府だけで物事を決められなくなり、朝廷の発言力が強くなったのである。物事の権限の所在が分りにくくなり、政局は微妙な政治的バランスの上で推移して行く。

 元治元年、京都での政治的主導権を握るため、慶喜は朝廷に働きかけて、禁裏御守衛総督に任命された。その際、彼はそれまで務めていた将軍後見職を朝廷によって免ぜられている。これは、将軍が任命した後見職を何故朝廷が免ずるのかという幕府側の反発を招き、ならば、当時の将軍家茂は将軍を辞職すべきだとの意見まで提出された。慶喜としてみれば、幕府のためにいろいろと高度な政治手的テクニックを使うのだが、なかなかそれは理解されない。朝廷からは幕府側の人間と看做され、幕府からは朝廷の利益を計るものと疑われるのである。綱渡りの様な日々が続く。

 先程の二枚の写真に戻ろう。この写真は好奇心につられて、戯れに撮影されたものではあろう。しかし、慶喜の立たされていた政治状況を重ねわせて見るとどうだろうか。ポイントになる小道具は資治通鑑、ライフル銃、それに刀である。資治通鑑を前に思案にくれるのは、歴史書にもない眼前の状況-具体的には条約勅許、兵庫開港問題などがあげられる-にどう対応して行くかということを意味するし、ライフル銃は、その原因となる欧米各国の存在と彼等のもたらした新知識の産物ということになる。政略の必要上から彼の態度はぶれることはあったが、本心は港を開き、積極的に欧米各国の優れたところに学んで行くしかないというところにあった。そうすると、ライフル銃は彼の進取の精神、新たなるものへの志向のシンボルでもある。二枚の写真にはともに刀が写されているが、刀とライフルの対比はシンボリックである。刀を伝統的な権威の象徴とすると、一枚の写真のなかに伝統と進取が同時に存在していることになる。彼はまさに、この間で苦闘して行くのである。戯れに小道具を選び、ポーズを演出して行く中で、図らずもこの二枚の写真に、彼を取り巻く当時の時代相が写し取られたと見るのは、深読みに過ぎるだろうか。

 幕末期の写真師は、それぞれが特定の敷物や背景を使用としていたといわれているが、二枚の写真に写されている絨毯( 参考図3・4)を観察してみると、両者は同一、もしくは、極めて近似していると言ってよいだろう。慶喜の服装がほぼ共通している点を考えあわせると、二枚の写真は同一の撮影者によるもので、撮影も同じ時を含む近接した時期に行われた可能性が考えられる(13)。

 この二枚の撮影者は分らぬものの、一橋徳川家では何人かの写真師を抱えていたと言われている。その内、記録によって確かめられる人物は阿部寿八郎である。『新稿一橋徳川家記』には、慶応2年8月9日、京都二条堀川東入町横田栄五郎定職人阿部寿八郎を写真師として抱え入れたとある(14)。彼は慶喜との関係を史料の上から追える数少ない写真師の一人である(15)。


4 松浦玲『徳川慶喜』(中公新書、1975年)。
5 小沢健志『日本の写真史』(ニッコールクラブ、1988年)15頁。
6 この他に、『日本写真史年表』(社団法人日本写真協会編、講談社、1976年)によると、嘉永元年(1848年)と安政元年(1854年)に長崎に家臣を派遣し、写真術を学ばせたと記され、松尾矗明「アマチュアであった徳川慶喜卿」(1932年2月号)217頁にも関係する記述がある。
7 註6松尾前掲書では、慶喜がダゲレオタイプを早くからいじくっていたと述べられる。また、『徳川慶喜公伝』編集に際して、渋沢栄一が禁裏守衛時代の慶喜の写真を必死に探したが見出せなかったとされている。渋沢栄一がより古い写真を探すということは、彼はその写真の存在を知っていた、あるいは存在の可能性を信じていたということになるが、新たなる資料の出現を待ちたい。
8 禁裏すなはち京都御所の警護を総括する役職で、幕末期、臨時的に設置された。慶喜は元治元年3月25日から慶応2年7月31日まで、この役職にあった。
9 ここで触れる徳川家の写真アルバムとは、徳川慶朝氏、徳川脩氏、茨城県立歴史館(一橋徳川家伝来)に所蔵されるもので、慶喜の没後、彼を偲んで製作され、関係各家に配付されたものと推測される。石黒敬章氏のご教示によると、このアルバムの写真はコロタイプ印刷との事である。
10 禁裏御守衛総督時代のものという判断は、『徳川慶喜公伝』三巻(東洋文庫98、平凡社、1967年)口絵写真の注記によった。
11 辻達也編『新稿一橋徳川家記』(続群書類従完成会)安政四年三月二四日条。
12 『徳川慶喜公伝』史料編三 年譜 安政四年条。
13 なお蛇足ながら、将軍時代の肖像とされるものの中に、絨毯が共通していると思われるもの(図版33―8)がある。顔貌を比較してみると、他の将軍時代の慶喜のそれはもうすこしふっくらとしていて、幾分細面に見える図33―8の慶喜の顔の輪郭は、禁裏御守衛総督時代の二枚の写真により近い。あるいは図5の写真は一橋徳川家時代のものかもしれない。
14 『新稿一橋徳川家記』慶応二年八月九日条。なお、註6松尾前掲書には、お抱え写真師として吉竹永胤の名があげられているが、典拠は示されていない。
15 栗園「本邦写真家列伝」(『写真新報』157号)若林耕化氏の項には一応次の様に記されている。大坂の写真師若林氏の家は慶応年間、大坂で薬舗を営む傍ら写真材料品を販売していたが、偶々一橋公の使者阿部寿八郎が大坂に来た。栗園(筆者)云として「阿部氏は長府の人にして、出て亀谷姓を襲ぐ、長崎手代役を勤め、後上野彦馬氏に就いて写真術を修め、吉富氏、内田九一氏、及び只野藤五郎氏等と同輩なり。」とし、若林氏は亀谷氏から写真を習ったと記している。

参考図

4.将軍のポートレイト

 阿部寿八郎を召し抱える少し前、慶応2年7月20日、一四代将軍家茂は大坂城で没した。幕府は長州征討の最中である。急遽次の将軍を決めねばならぬ。この難局を乗り切る能力を持つ人物は慶喜しかいない事は、衆目の一致するところだった。しかし、彼は容易に将軍となることを承諾しない。充分な権限が自分に与えられていないという判断であった。8月20日、家としての徳川宗家だけを嗣ぐという変則的な事態を経て、彼が最後の将軍となったのは12月5日のことであった。
 将軍職を受けないという態度をとりつつも、彼は将軍就任前から動き出していた。8月には長州征討を中止し、11月には彼の弟・徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣する事を決めている。彼が推し進めようとしていたのは、わが国の近代化であった。しかも、それは迅速に遂行されなければならない。フランスとの関係を軸にして、ヨーロッパ諸国から新しい制度、技術を導入し、改革を進めて行く必要があったのである。時と競うようにして、彼は諸施策を進めて行くのである。
その一つが幕府の軍制改革である。別稿の「徳川慶喜と軍制改革」で述べられているように、彼は抜本的な軍制改革を実施した。天保年間に始まり、将軍家茂の時代に動きだした幕府の軍制改革は、慶喜の第二次軍制改革によって、組織の大変革にまで及び、フランスからは軍事顧問団を招聘、フランス式の陸軍演習を開始するに至るのである。
将軍時代、慶喜がフランスの軍服を身につけた写真が残されている。三種類は右斜前を向いて立つ姿(図版307-11~13)、二種類は馬上の姿(同33-14~15)である。なかでも、図版33-11の画像のものは、図版1の幕末期にまで溯る着色のプリントが残されている。家茂の写真が失われてしまった今日、慶喜は写真で見る事の出来る最初で最後の将軍となるが、この姿の肖像は、われわれの伝統的な将軍というイメージを打ち破る。既製の将軍のイメージには、伝統的な装束を身につけた彼の肖像(図版2)の方が似つかわしい。フランスの軍服姿の将軍は当時の人から見ても、かなりのミスマッチであっただろう。
 しかし、彼の推し進めようとしていた事柄を見てくると、この写真は強烈な意志を発してくるように思われる。禁裏御守衛総督時代、彼はライフル銃を脇に写真に収った。そこに見られた、新しきもの、改革への志向は、将軍という地位を得て、初めて自らの主導のもと、強力に推し進める事が可能になった。この最高権力者の肖像は、敢然と近代化を宣言しているように思われるのである。
 もう一つ、考えさせられる事がある。最高権力者の肖像は、ある種の政治的装置として作用する要素を持っている。時代は下るが、明治天皇の「御真影」がその様な装置として作用した事は既に指摘されている(16)。そこでは、周到な計算の下で、新しい権力者の肖像が創られていった。フランスの軍服に身を包む将軍の肖像も、これまでにない、新しい最高権力者の肖像である。しかも、彼は世の中の仕組を大きく変えるという強い意志を自ら持っていた。新しい社会には新しいシンボルが必要となるが、慶喜の肖像には政治的装置として機能しうる要素が秘められていたように思われるのである。しかし、幕末のこの時期では、人々が新しい将軍の肖像にそこまでの意味を積極的に認めていたかとなると疑問が残る。政治的装置としての肖像の意味と技法を日本人が理解するようになるのは、やはり明治になって西欧世界からそれを学び取ってからだと言えるだろう。フランス軍装の慶喜の肖像は、後に具体化される政治的装置としての最高権力者の肖像へ至る萌芽と理解される。明治天皇の「御真影」は、慶喜のこの肖像のなかに準備されていたと言えようか。
 この一枚の肖像写真には、当時の幕府のあり様が写し取られている。軍制改革、フランスとの連携、近代化、時代の変貌は時の最高権力者に新しい肖像を記録させたる事になったのである。
 さて、先程あげた五枚の写真の内、二枚の中で慶喜は西洋馬に跨がっている。この写真に見える鞍下と軍帽が久能山東照宮博物館に今も伝来している(図版4、S-1)。鞍下から見て行こう。二枚の写真の中の鞍下は一見すると同じものの様に見えるが、良く較べてみると微妙な違いがある。慶喜が礼装で跨がっている鞍下の四隅に相当する部分は丸みを帯びているが(図版33-14)、正装と思われる軍服を着て慶喜が跨がっている鞍下の角は鋭角的である(図版33-15)。図版S―1の現物と較べると、これは、図版33-14に近似していると言えるだろう。図版4の軍帽は、図版33-15に写されている帽子に近い。慶応2年12月8日、シャノワンヌ以下のフランス軍事顧問団は横浜に上陸し、軍服装備一式を幕府に献上したが、あるいはこの中に、写真の慶喜が用いている軍服類や鞍下が含まれていたのかもしれない。
 二枚の写真でもっとも目を引かれるのは、慶喜が跨がる西洋馬である。これまで、この二枚の写真について種々の発言(17)がなされているものの、典拠が明らかにされていないため、適否の判断に苦しまざるを得なかった。しかし、岡宏三氏は近年幕末期の西洋馬の移入についての研究を発表され(18)、その中で、写真の馬は仏国公使ロッシュもしくはイギリス公使パークスから慶喜へ献上されたアラビア馬(19)である可能性を明らかにされた。氏の研究により、ロッシュの方から見てみたい。慶応二年11月20日、彼は幕府の老中に書簡を出し、自らが所有するアラビア馬一匹を慶喜に献上したいと申し出た(20)。老中は11月29日に返書を出し、大君殿下(将軍・慶喜)はきっと満足し喜ばれることと思われるが、早速(将軍のいる)大坂表へ送るようにしたいと、彼に感謝の意を伝えている(21)。さて、このロッシュのアラビア馬献上は、ナポレオン三世から慶喜へのアラビア馬寄贈の文脈の中で行われている。ロッシュの慫慂により、ナポレオン三世は2五頭のアラビア馬を慶喜に寄贈することになった。その馬が到着するまでの間にアラビア馬をお目にかけたいということで、ロッシュのアラビア馬献上は行われた。2五頭のアラビア馬は慶応3年4月には横浜に上陸、早速飼育伝習が開始され、その内の数頭は慶喜の元へ送り届けられる手筈になっていたが、その間に大政奉還などの景況の変化があり、結局はナポレオン三世寄贈のアラビア馬は慶喜のもとに届けられることはなかったのである(22)。では、先に見たロッシュが慶喜に献上したアラビア馬はどうであったろう。残念ながら現在の時点では、幕府に受領されてたからのアラビア馬の行方ははっきりしない。しかしながら、写真で慶喜が跨がっているのはアラビア馬と考えられるから、ロッシュの献上したアラビア馬も、写真の馬に該当する候補の一頭とは言い得るだろう。
 一方のパークスだが、板倉伊賀守(勝静・かつきよ)らから彼に宛てた「戊辰(慶応四年)正月六日」付の礼状が記録に残されている。その文面からは、パークスがアラビア馬一匹を慶喜に献上していたことが判明する(23)。思うに、この時点で板倉勝静は慶喜のそばを離れることはなかったから、パークス献上のアラビア馬は慶喜の手元に届いていたと考えてよいだろう。しかしながら、慶応四年の正月六日という日は、鳥羽伏見の戦いの敗報を聞いて慶喜が大坂城を脱出、海路江戸へと向かった日である。アラビア馬受領の日時は当然これよりも溯るとしても、書状の文面からは、正月六日をそれほど溯らない日に献上が行われたとの印象がある(24)。慶応3年10月の大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いへと連なる政治的混乱の状況の中で、パークスの馬が写真に撮影されることがあったのかという疑問は残されている。
 二枚の写真に写し取られているフランスの軍服、軍帽、鞍下、そしてアラビア馬。これらの記号の背後には、ナポレオン三世との交流、軍制改革、その一環としてのアラビア馬の飼育伝習など、慶喜が推進していた諸施策が読み取れる。それらは近代化と言うキーワードに収斂されるだろう。ひとつひとつの記号が読み解かれて行くに従って、この写真はより豊かな時代のイメージをわれわれに提示してくれよう。

 時間軸を元に戻そう。慶応3年2月、慶喜はフランス公使ロッシュを引見し、幕政改革の意見を聞いた。この後も、慶喜は幕府の機構改革を進めて行く上で、しばしばロッシュの建言を入れることになる。3月5日、兵庫開港の勅許を朝廷に求めたが、京都にほど近い兵庫に外国の勢力が入る事を嫌う朝廷は、これを許可しない。しかし、各国と結んだ条約で約束されている兵庫開港をいつまでも延ばす訳にはいかぬと判断した慶喜は、3月28日、大坂城でイギリス、オランダ、フランスの各国公使と引見、朝廷の勅許を得ないまま、兵庫開港を声明するのである。政局はしばらく兵庫開港問題を巡って動いて行く事になる。政局の節目となるこの日(25)、慶喜は大坂城で自らの肖像をイギリス人フレデリック・ウィリアム・サットン(Frederick William Sutton)に撮影させている。この写真は後に版画に起こされて、イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(以後ロンドン・ニュースと表記)1867年8月10日号に掲載された(26)。将軍の画像は海外にまで報道される事になったのである。新聞記事は、慶喜を新しい将軍として紹介、大坂城でのイギリス公使パークスとの公式会見の模様を伝える中で次の様に述べている。「本紙は英国軍艦サーペント号の技師長、フレデリック・ウィリアム・サットン氏のおかげで、サットン氏自ら最近英国公使が大阪を訪問した祭、撮影を許された二枚の写真を入手した。その一枚が、本紙に彫版で掲げたもので、宮廷用の盛装をした皇帝殿下を示している」(27)。ここに言う彫版が図版S-7である。この版画は、徳川家の写真アルバム中の図版33-6、及び図版31と極めて近似する。版画と写真を結びつけるかのように、港区郷土資料館に所蔵される図版31の写真(28)の裏には、次のように記されたシールが貼られている。
STOTS-BASHI,Tycoon of Japan,in usual costume
Photographed by F.W.SUTTON,C.E.R.N
「平服の日本の大君、一橋(STOTS-BASHI)。撮影F.W.サットン」とでもなろうか。ロンドン・ニュースでは慶喜の服装を「宮廷用の盛装」と記しているが、これは図版S-7、及び33-6に見られる小直衣(武家の礼装として用いられ、四位以上が着用した)としてよいだろう。だとすると、シールの平服(in usual costume)という表現は誤りということになるが、"F.W.SUTTON"とは英国軍艦サーペント号の技師長、フレデリック・ウィリアム・サットンと同一人物と考えてよいだろう。
 では、サットンが撮影したもう一枚の写真はどの様なものであったのだろうか。ロンドン・ニュースは言う。「もう一枚の肖像は、このタイクンが、公式迎接の日の翌日、ハリー・パークス卿を伴って大阪の宮殿内部でわが第九連隊の一中隊を査閲するために出発した際の姿を示すが、このときは、タイクンは、その袴が金糸の布地でごわごわしていた点以外は、日本の高い位の人の普段着ている衣服を着ていた」(29)。公式謁見の翌日、即ち慶応3年3月29日、この日に写真撮影が行われたことは日本側の記録によっても確かめられる。
 一、同廿九日四時前英吉利公使登城。大広間御庭ニ而 英之兵隊運動上覧、并御写真有之。(後略)(30)
 意味するところは、3月29日、イギリスの公使が大坂城に登城し、大広間の庭でイギリスの兵隊の調練を慶喜に上覧し、また、写真撮影が行われたというのである。この記録は先に引用したロンドン・ニュースの記事と良く符合する。日本側の記録では「御写真これ有り」とのみ記されたこの時、ロンドン・ニュースによると、慶喜は「金糸の布地でごわごわしていた」袴を履き、「日本の高い位の人の普段着ている衣服を着て」サットンの構えるカメラの前に立っていたのである。この時の写真とは、図版33-5と同様の画像からなるものと推定される。そこでの慶喜は羽織を身につけているが、「日本の高い位の人の普段着ている衣服」の中に羽織は含まれているし、写真の上からも光沢の感じられる袴を彼は履いているからである。写真の後方に写っている屏風が、サットン撮影の図版33-6のものと近似していることも、この両者が近似した場所、時間に撮影されたとの推定を助けている。
 ところで、オランダのライデン大学には図版33-6、5と極めて近似する慶喜の肖像写真が所蔵されている(参考図5、6)。これらは、それぞれ同じ日にサットンによって撮影されたものとして良かろうが、細かく観察してみると、微妙な違いがある(31)。とすると、慶応3年3月28、29日の両日に撮影された写真は一カットずつではなく、少なくとも二カットずつ撮影されていたことになるのである(32)。
 この日のロンドン・ニュースには、慶喜の肖像の他に、3月28日と29日の会見の様子を描いた版画が掲載されている(参考図7、8、9)(33)。彼の時代には、印刷技術の制約から写真こそ掲載されなかったものの、現在の様に重要な政治的出来事は、画像を伴って報道されていた。この日の記事で、日本の最高権力者・将軍がその肖像を伴って報道の主役となったということには、ひとつの画期が認められる。将軍は神秘のベールのなかから、この時初めてヨーロッパの大衆の前にその姿を現したのである。
 外国人であるサットンの構えるカメラの前に彼が立たなければ、この日の肖像は掲載されなかっただろう。彼が写真撮影をサットンに許したのは、慶喜が私として写真が好きであったからというだけのことではなさそうである。この間の事情に少し触れておこう。
 ノース・チャイナ・ヘラルド1867年5月23日号によると、一連の大坂城での会見の時には、豪華な食事が出され、「料理も給仕の仕方もフランス式で、皿やグラスはすべてヨーロッパ製の最高級品だった。大君自らが上座に座って主人役を務め」(34)たという。ナポレオン三世から贈られた軍服を自ら着てカメラの前に立ち、外国公使との食事では自身がホスト役を務めた慶喜であってみれば、彼は公の意識の下に、進んでサットンのカメラの前に立ったのではなかろうか。彼は外交関係を重視していたからである。彼が将軍を引き受けるにあたっての第一の条件は、彼の外交政策が完全に支持されるということあった。外国との友好を図ることはその第一歩であるから、彼は忠実にそれを実行したのである。ちなみに、この日の記事にもサットンの名がちらりと登場している。「サットン大佐は、大阪港と兵庫港、そして海岸に近い外国人居留地を視察していたが、そのいずれについても彼は立派な計画を作った」(35)。この記事の最後にはサーペント号の名前が出てきているので、このサットンは先のロンドン・ニュースで触れられている「英国軍艦サーペント号の技師長、フレデリック・ウィリアム・サットン」と同一人物と推定して良さそうである。記事からは、彼が大佐の位で、外国人居留地の計画業務に従事していたことが知られる。
 将軍時代、慶喜は複数の写真師と関係があったと言われている(36)が、典拠が明らかになるものは極めて稀である。サットンが撮影した写真は、その例外的なものと言えようが、慶喜の姿こそ写されていないが、彼と関わりを持った写真師の名前が明らかになる写真が福井市立郷土歴史博物館に所蔵されている。それは、松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂の肖像写真で、ともに着色が施され、春嶽によって衝立に仕立てられている(図版S-2)。付属する春嶽自筆の箱書によると、この写真は、慶応3年5月14日、慶喜が上記の四名を京都の将軍の居所に呼び、国事を議論させ、その労を労うため、酒を振るまい、カメラ(写真鏡)を取りだして、四名の肖像を撮影したのだという(37)。箱書の原文からは慶喜が四名を撮影したのか、写真師に撮影させたのかはっきりしない。一方、この写真については別の報告がある。それによると、伊達家には、やはり慶応3年5月14日撮影のこの四名の肖像写真が伝えられ、その包み紙には、宗城の自筆により、横田彦兵衛が撮影したと記されているというのである(38)。同日に、同じ人物を撮影している事から、この両者は同じ画像であると仮定してよいだろう。とすると、この包み紙の記述から、福井市立郷土歴史博物館所蔵の肖像写真も慶喜の命により、横田彦兵衛が撮影したものということになる。
 横田彦兵衛がどのような人物なのか、これ以外のことは分らないが、被写体となった四名は、いずれも幕末の政局に大きな影響力を持った、そうそうたるメンバーである。一体この日、何が話し合われたのであろう。
 実は、慶応3年5月14日という日は、幕末の政局の大きな転換点となった日である。この日、慶喜と春嶽、久光、宗城、容堂の四侯は兵庫開港と長州処分問題を論じていた。先の大坂城での各国公使との会見で慶喜は兵庫開港を宣言していた。これを明らかに朝廷の命令に違反するとした薩摩藩士らは、この会議で慶喜の朝命違反を追及し、彼を窮地に追い込んだ上であわよくば政権をこの四侯会議に移してしまおうと計画していた。しかし、会議は慶喜が主導権を握ったまま終了し、この目論見は達成されずに終わる。政治交渉による倒幕に限界を感じた薩摩らの倒幕派は、武力討幕を決意する事になるのである。
 サットン、横田彦兵衛撮影の写真は、いずれも政局の転換点に撮影されている。そういった、重要なひと時に写真が登場していることからは、慶喜が写真を愛好したということに止まらず、画像情報へと向かう時代の流れが感じられる。これらの写真は、現在のわれわれからみると、歴史を理解する上での画像史料と位置づけられよう。その内の何枚かは、版画という形に変換され、ロンドン・ニュースなどの海外の挿絵入り新聞に掲載され、海外へも伝播した。版画への変換の過程で幾分の誤差が生じることはあったが、それらは、文字によっては望むべくもない具体性を伴っていた。さて、慶喜の肖像のイメージはヨーロッパへと伝えられたが、彼のイメージはヨーロッパを訪れた一人の人物を通しても、彼の地で意識されていた。訪問した人物は、徳川昭武。慶喜の実弟である。彼は1867年のパリ万博に将軍・慶喜の名代として派遣され、ヨーロッパ各地を歴訪した。次では、彼の渡欧について触れてみたい。


16 多木浩二『天皇の肖像』(岩波新書、1988年7月20日)。
17 註6松尾前掲書、220頁には、次のように記されている。
(前略)慶応3年3月27日に、仏国全権公使ロッシュというものが、同国提督とともに卿(筆者注・慶喜)の二条城に登城し、皇帝ナポレオン三世よりの委任状を捧呈したことがあった。(中略)慶喜卿は、このときナポレオンより貰った軍服を着て馬上に跨がり、開成所絵図方に勤めていた船橋鍬次郎を召して、それを写真に撮らせている。徳川慶久家に秘蔵してある写真は、このときのもので、このほか、船橋鍬次郎は、卿がナポレオン三世寄贈の品々を身につけて、紅毛気取りに気取った姿を十数枚撮影した。これも徳川慶久家に、今、四枚ほど秘蔵してある。(後略)
図版33の徳川家の写真アルバムは徳川慶久家によって製作されたものと考えられるから、松尾氏がここで触れている写真の大部分は、徳川家の写真アルバムに収められているものだろう。しかし、この日、慶喜がいたのは大坂城であり、27日にここでロッシュに謁見はしているものの、ロッシュがナポレオン三世からの委任状を慶喜に捧呈したのは、3月28日であった(『徳川慶喜公伝』史料編三、60頁)。この様に、氏の発言にはいささかの誤差が含まれているので、慎重に検討される必要があるだろう。
18 岡 宏三『慶応三年アラビア馬の受領と小金牧牧士の飼育伝習御用』(1990年、私家版)。
19 岡氏によると「アラビア馬」という言葉は、西洋馬全般を指す言葉としてもちいられたふしがあるという。後に触れるナポレオン三世から慶喜に贈られた馬は純然たるアラブ種の馬であったというが、本稿ではアラビア馬の定義については立ち入らない。
20 註18岡氏前掲書7頁、同書から典拠となる史料名を書き抜くと次の通り。『続通信全覧』類輯之部、九、修好門、各国贈答物品一件六「一一月二十日仏国公使ヨリ閣老ニ予テ畜ひ置シ亜臘比亜馬ヲ進呈セントノ来翰」。
21 『同』10頁。『続通信全覧』類輯之部、九、修好門、各国贈答物品一件六、「同廿九日前件云々ハ大君ニモ満悦スヘク因テハ鞍馬撰択寄贈スヘシト其筋ニ命令セシトノ返翰」。
22 註18岡氏前掲書、11頁―39頁。
23 『同』91頁。『続通信全覧』類輯之部、九、修好門、各国贈答物品一件三、「明治元年戊辰正月六日閣老ヨリ英公使ニ亜刺比亜馬贈遣スヲ謝スルノ書翰」。
24 註21の返翰には、「(前略)然者このたび貴様より亜刺比亜馬産駿馬牝之馬壱匹被成献呈(後略)」とあり、「このたび」すなわち、今回という言い回しからは、正月六日に程近い日に献上が行われたという印象がある。
25 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース1867年8月10日号には、慶喜とパークスとの公式会見は1868年5月1日、つまり、陰暦の慶応3年3月27日としている。しかし、『徳川慶喜公伝』史料編三「六六三 慶応三年三月下旬四国公使上坂謁見の次第書」によると、パークスとの公式謁見が行われたのは同年三月28日、太陽暦の1868年5月2日であるので、ここでは、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの日付が誤っているとの前提に立ち、公式謁見が行われた日を3月28日として叙述を進めている。
26 慶喜の写真をサットンが撮影したとの記事がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載されているということは、石黒敬章氏のご教示による。
27 訳文は金井圓編訳『描かれた幕末明治イラストレイテッド・ロンドン・ニュース日本通信』(雄松堂書店 1973年)によった。原文は次の通り。
We have been favoured by Mr.Frederick William Sutton, chief engineer to H.M.S.Serpent,with two photographs of the Tycoon, which Mr.Sutton was permitted to take on occation of the late visit of the British Legation to Osaka.The one we have engraved shows his Imperial Highness in full Court costume…
28 この写真については図版解説を参照。
29 註27金井前掲書による。原文は次の通り。
 The other portrait shows the Tycoon as he apperd the day after the official reception, in accompanying Sir Harry Parkes to inspect a company of our 9th Regiment in the courtyard of the palace at Osaka ,when he wore the usual dress of a Japaness of high rank, except that his trousers were stiff with cloth of gold.
30 『徳川慶喜公伝』史料編三 50頁 「六六三 慶応三年三月下旬四国公使上坂謁見の次第書」 慶応三年三月二九日条。
31 慶喜の羽織袴姿の写真を較べると、徳川家の写真アルバムのもは体を軽く右に傾けている点が異なり、狩衣のそれは、風折から垂れるカケ緒の形が異なっている。
32 従って、現在の情報を元にすると、ロンドン・ニュースが入手した二枚の写真がどのプリントと同一のものと特定するのは難しくなる。
33 話は少し脇道にそれるが、日本側の記録と照らし合わせて少し見てみよう。先の引用文中に「英之兵隊運動上覧」という言葉が見えた。この「運動」という言葉は具体的には何を指すのか分かりにくい言葉だが、参考図版7を見ると、大凡の見当はつけられる(後方の建物が中国風になってしまっているのは、必ずしも正確とはいえないが)。参考図版8で日本人の兵隊が捧げ銃を行っているのは、日本側の記録と符合する(註21前掲書、三月二八日条「一、(前略)勤番之銃隊等者戎服着之、立固ニ而、公使通行之節者捧ケ筒致し候」)。彼らが着ている洋服に似た服は戎服と呼ばれた当時の軍服で、幕府の軍政改革に伴って導入されていたものである。これらの版画には、不正確な点も見られるものの、日本側の記録と照合するなどの手順を踏めば、充分画像資料としての利用が可能だと思われる。
34 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1867年5月23日号。訳文は『外国新聞にみる日本』(毎日コミュニケーションズ、1989年)381頁によった。
35 註34に同じ。原文は次の通り。
 Captain Sutton has been suiveying the harbours of Osaka and Hiogogo and the foreign quarters on shore, of all of which he has made good plans.
36 永見徳太郎「写真雑考(二)」(『明治文化研究』4―6)には、慶喜に関わりを持った写真師として次の人物の名前が挙げられている。御所写真師の亀谷徳次郎。一橋家の写真師吉竹永胤。慶喜の肖像を撮影した写真師として英国人某、亀谷徳次郎、吉永永胤、船橋鍬次郎、内田九一、森永孝吉。慶喜に写真機の購入を嘆願した明石博高。また、慶応3年にビワトが万国新聞紙に慶喜の肖像を撮影した旨の広告を載せたと紹介している。また、註6松尾前掲書にもこれと同様の写真師の氏名が記される。
37 箱書の原文は次の通り。
此写照慶応三年 五月十四日大樹公召 余与島津君輝伊達子藩松平厳璋於京師 営中令倶議国事是日 為慰其労賜酒又出写真鏡所俾描四人象者 也故装以為小屏書其 由於背云春嶽永識
38 松尾矗明「徳川慶喜卿(二)―初期アマチュアの大立者―」(アサヒカメラ 1932年3月号)に引用される文によった。引用文は次の通り。


参考図

図版33-14

図版33-15

参考図5 オランダ・ライデン大学所蔵

参考図6 オランダ・ライデン大学所蔵

参考図7 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1867年8月10日号

参考図8 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1867年8月10日号

参考図9 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1867年8月

5.将軍のイメージ-徳川昭武の渡欧-

 徳川昭武は、嘉永6年(1853年)、水戸藩主徳川斉昭の一八男として生れた。生母は万里小路睦子(までのこうじちかこ)。従って、昭武は慶喜の16才年下の異母弟ということになる。彼と慶喜の関係は、元治元年(1864年)、昭武が京都御所警備のため上京したことに始まると言ってよいだろう。水戸藩は京都に御所警備のため本圀寺勢(ほんこくじぜい)と呼ばれた藩士たちを派遣していたが、昭武は、弱冠12才の若さでその将となった。当時、慶喜は文久2年末から京都に滞在し、一橋徳川家の当主の位置にあり、将軍後見職から禁裏御守衛総督を務めていた。一橋徳川家は将軍家の家族のような存在なので、特定の領地や家臣団を持っていない。慶喜は実家の水戸藩から人材を借り受けたり、在京の本圀寺勢と連携をとりあうなどして、政治的な影響力の保持に努めていたのである。昭武は元治元年の禁門の変、天狗党の乱では慶喜と共に働くが、これらを始めとする慶喜との交流によって、昭武の写真も残されることになる。
 慶応2年(1866年)3月10日、慶喜は昭武を京都の自邸(39)に招き、彼の肖像を撮影した。13日には三枚を原市之進へ渡し、その内の一枚を貞芳院(慶喜実母)へ贈るように指示を出している(40)。この時の昭武の写真が図版16であろうと思われる。この時よりも幼い昭武の衣冠姿の画像(参考図版10)が伝えられているが、今のところ撮影日時は分らない(41)。
 この年の11月、昭武は、翌年にパリで開催される万国博覧会に兄の将軍慶喜の名代として派遣されることになった。この時の1867年パリ万博は幕府が初めて公式に参加した万博であり、幕府を初めとして薩摩、佐賀の両藩、商人の清水卯三郎などが出品した。かつてない日本からの大量の出品物は、ヨーロッパの人々に日本のイメージを強く印象付け、後に本格的に勃興することになるジャポニスムのひとつの契機となった。昭武は、パリ万博に参列後、ヨーロッパ各国を歴訪、彼の来訪は各国の新聞などに大きく報道されるのである。この万博を契機とする一連の出来事により、わが国は、初めて国際舞台に本格的にデビューしたと言えよう。
 昭武は渡欧に先立ち、御三卿(ごさんきょう)の一つ清水家に養子に入り、その当主となっている。当初、昭武は会津藩へ養子に行くことに決まっていたが、いろいろと込入った事情もあって、清水家を継承することになった。そこには慶喜の強い意志が働いていた。慶喜は、会津藩主松平容保(かたもり)に次の様に語ったと伝えられている。
 予が宗家を継いだけれども、方今、内外多難の日に 際し、永くその負荷に堪えられぬことは言を待たない。ゆえに、今より親藩のなかから器量のあるものをえらび、欧州にやって知見を広めさせ、その者をわが嗣(し)にしたい。思うに、民部大輔(みんぶだゆう・筆者注・昭武)がそれにふさわしい人である。ところが、彼はかつて卿(筆者注・容保)の嗣となる約束があった。しかし、そのような事情であるから、彼の弟の余九麿(よくまろ)を卿の嗣に代えてほしい。(後略)(42)
慶喜は昭武を自分の後継者にと考えていたのである。そのためには、将軍継承者を出し得る家、清水家の当主に昭武を据える必要があり、その上で、これからの指導者に必要な知見を得させるため、ヨーロッパへ行かせたいと言うのである。昭武の会津藩養子入の件は、前将軍の家茂の命に出たものであるからと、会津藩の家臣の間では反対意見も出た。それを承知の上での清水家入であった。では、ヨーロッパへと派遣される昭武に慶喜は何を望んだのだろうか。慶喜は、慶応3年正月3日、昭武の渡欧に際して五箇条からなる次の書翰を彼に送っている。
 [1]博覧会終了後、条約締結の各国を歴訪すること
 [2]各国歴訪がすんだらフランスへ留学をすること。期間は三年から五年を想定し、学業の修得が未だ充分でない場合には、さらに留学を続けること
 [3]留学中は師を重んじること
 [4]日本に非常の出来事(「事変」)が起こったとの噂を聞くことがあっても、みだりに動かぬこと
 [5]渡欧の一行の者は一和に努めること(43)
重要なのは[1]、[2]及び[4]である。昭武の渡欧は、パリ万博参列と各国歴訪という使命はあったものの、[2]を見ると、長期的には彼自身の留学がより大きな比重を占めていたことが理解される。留学期間は三年から五年、じっくりと腰を据えて勉強してくるようにとのことである。しかも、学業が期待通りの成果を挙げられない場合には、さらに留学期間を延長せよと念を押している。これと先の慶喜が容保に語った内容を合わせ読むと、昭武の渡欧は慶喜の長期にわたる政局運営構想の一環をなしていたものと推測される。将来、慶喜が政権を維持できなくなった場合、次を託せるだけの能力を身につけてくるようにとのヨーロッパ派遣であったのである。しかしながら、政局の行く末は予測するのが難しい。[4]で不測の事態に対する心構えに触れるのは、慶喜の政局に対する現状認識、つまり、いつ幕府の存立が危うくなるような事態、さらに言えば、幕府の瓦解が起きてもおかしくないという認識が窺われて注目される。
 清水家を継ぎ、姓をそれまでの松平から徳川に改めた昭武は、慶応3年正月3日、パリへ向けての旅に京都を出発する。大名、しかも御三卿の格式を持つ人物の渡欧は、初めての事であるし、大名自らが外国で留学生活を送るというのも、もちろんこれまでに無かったことであった。明治になると、新時代への対応という目的意識から旧大名、公家の人々の海外留学が輩出するようになるが、昭武はその先駆けとなったのである。
 横浜から上海と船を乗り継いだ昭武一行は、慶応3年2月29日、マルセーユに上陸した。3月1日(陰暦)には、Waleryのスタジオを訪れ、写真を撮影した。この時の写真は二枚が残されている(図版17、18)が、この他にもう一枚の写真が撮影され、版画に起こされ1867年4月27日の「イリュストラシオン」に掲載された(参考図11)(44)。昭武の画像が掲載された最初のものと思われる。この後も、彼の動静は各国の新聞に報道された。昭武は無記名のサムライという存在を抜けだして、特定の個人として意識されるのである。
 彼の渡欧がそれまでヨーロッパを訪れた日本使節団と異なっているのは、彼の背後に、将軍、つまり日本の最高権力者のイメージが強く意識されたということだろう。これは、彼が将軍の名代として渡欧しているのだから当然の事ではあるが、彼を送りだした側、端的に言うと慶喜は、その効果が最大となるように将軍の実の弟を人選し、将軍となり得る家・清水家の当主という地位と徳川の名字という舞台装置を整えて彼をヨーロッパへと送り出したのである。彼は将軍のイメージを伴ってヨーロッパを訪問する。来訪を受けた各国では、眼前の彼の存在を通じて日本の将軍が意識されることになるのである。これを1867年12月21日のロンドン・ニュースで見てみよう。この号には図版S-5の写真を元にした昭武の肖像(図版-6)が掲載され、将軍と昭武との関係が詳しく報じられた。とりわけ、この記事では、昭武の将軍職継承の可能性に興味が持たれたようである。当時の慶喜に嗣子がないことを記事の筆者は承知していて、その時には、どのように将軍職は継承されるのかという解説から記事は始まっている。引用を交えて記事の該当部分を紹介しよう。
 その場合には、将軍家の分家にあたる御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)のうちの五家(水戸家は古い法律によって将軍継承権が無いと説明されている)から養子縁組によって将軍は継承される。「現在わが賓客たる若い公子はシミズの家に属するが、自分の兄に子がないので、彼の後継者たる請求権をかなりもつことになろう。とりわけ兄タイクンはかれに目をかけており、その寵愛をほしいままにしているらしいから、そういえる」(45)と昭武を次期将軍の有力候補であると報じている。そして、慶喜が水戸家から御三卿の一つ一橋家に養子に入り、将軍となったことを例に引き「今イギリスにいるその弟民部大輔は、同じくゴサウケ(筆者注・原文の用語の表記に混乱が見られるが、この場合には、御三卿のことを指している)のひとつであるシミズ家の養子となったのであって、その家長なるが故に、もし現タイクンが嗣子なく死去した場合には、きっとこれを継承するにちがいないのである」(46)と述べている。記されている内容は概ね正確である。日本の分りにくい養子縁組の制度にまで立ち入って、将軍職の継承を説明するこの記事の、日本理解の水準は高いと言えるだろう。慶喜が死んだ場合までをも想定して、昭武の将軍職継承の可能性に言及している点には、眼前の昭武にたいする肩入れさえ感じられるが、記事の筆者は、昭武の来訪によって日本の将軍を強く意識した。掲載された昭武の肖像は将軍とのダブルイメージとして見られていたのである。
 この記事で、昭武は「プリンス」と呼ばれた。歴訪した他のヨーロッパ各国でも英語でいうところの「プリンス」と彼は呼ばれている。プリンス、つまり国王の男子という呼称の前提には、彼が日本の王位継承の有資格者であるという認識がある。また、1867年のパリ万博に際しては、お土産用に各国の国王の肖像を集めた合成写真(図版20)が販売されたが、その中に昭武の姿がある。ここでも彼は、国王に準じる存在として認識されていた。では、日本の国王とは一体誰を指して言えばよいのだろうか。将軍なのか、それとも天皇なのか。ヨーロッパと日本の制度の違いを考慮に入れても、当時これは、はなはだやっかいな問題を含んでいた。少し前までならば、国王を日本の統治者と定義して、それは将軍のことであると説明すればよかった。しかし、昭武が渡欧する少し前から、当の日本人にも、さらには、将軍自身にさえも一体誰が日本の統治者であるのかが分らなくなっていた。それまでの幕府の統治機構は揺らいでいたのである。それ故に、慶喜は諸改革を懸命に推し進めていたのであり、だからこそ昭武はヨーロッパにまで派遣されてきたのである。
 先のロンドン・ニュースの記事で、昭武は「プリンス」として扱われている。将軍が日本の統治者であるとしたい幕府にとってみれば、この記事の掲載は外交活動のひとつの成果といえるだろう。しかし、昭武の渡欧によって喚起された将軍への関心は、一体日本の統治者は誰なのかという疑問をも引き起こすことになった。幕府の統治能力の低下は誰の目にも疑いようがなかっただけに、将軍は日本の統治者に非らずという主張には、一定の説得力があったのである。昭武のもたらした将軍のイメージは正と負と両方向の反応をヨーロッパに起こすことになったのである。
 ロンドン・ニュースの記事が掲載された日、陰暦で言うと慶応3年11月26日の時点では、昭武は最後のヨーロッパ歴訪国であったイギリスからパリへ戻り、本格的な留学生活を開始していた。日本の慶喜は、この一ケ月前ほど前に大政奉還を行っている。まだ昭武に、その情報は届いていない。当時、日本からフランスへの郵便が届くには、1月半から二ヶ月の時間を要していた。渡欧の際に慶喜の書翰で予見されていた日本の「事変」の報が、昭武のもとに続々と届くようになるのは、既に慶喜が江戸城を出て、謹慎生活を送るようになってからの事である。
幕府が瓦解してからの昭武の立場は、一転して微妙なものとなった。この段階での明治新政府は、まだ脆弱な基盤の上に立脚しているのに過ぎなかったから、前将軍の弟がフランスにいることに対して強い懸念をもった。明治元年5月4日、岩倉具視(ともみ)に宛てられた三条実美(さねとみ)の書翰には、「民部大輔(みんぶだゆう)当節之通永く仏国ニ差置候而(そうらいて)は後患深く可畏候(おそるべくそうろう)」(47)と述べられている。一方、時の水戸藩主慶篤(よしあつ)はその時点では既に没し(しばらく喪は秘されていたが)、その後継者選びが大きな問題となっていた。水戸家の意向としては、嫡子の鉄千代(後の水戸家一二代当主篤敬・あつよし)ではなく昭武を次期藩主にと望み、様々なルートを通じて新政府にその実現を働きかけていた。三条実美は先の書翰で、この流れにそって、昭武に水戸家相続を命じれば、彼は早急に帰国することになるだろうから、これは「妙策」(48)であると自ら評している。昭武が清水家を相続していることは、水戸家相続の障害となるが、利害をもって考えると、一日も早くフランスより昭武を帰国させるべきだと、三条は念を押すのである(49)。
5月13日、岩倉は三条に返書を宛て、昭武の水戸家相続に同意する旨を伝える中で、この時点で水戸に謹慎していた慶喜と昭武が同居することに対する懸念を表明し、昭武の帰国時には慶喜を他の地に移してはどうかと提案を行っている(50)。
 これらの書翰と符合するように、この頃から新政府は在仏の昭武一行に度々帰国命令を出し、さらには旧幕閣を通じて帰国を働きかけたと思われるふしもある(51)。
昭武の帰国問題は、水戸藩の相続問題と、三条、岩倉の新政府首脳の政治的判断が一致することによって、動きだした。
 留学続行か、帰国かをめぐって、昭武一行の意見は割れた。紆余曲折を経たが、最終的には帰国することになる。昭武が再び横浜へ上陸したのは明治元年11月3日。日本の土を踏んだ昭武が慶喜と再会するのは、15年の年月を経てからのことになる。帰国後、昭武は最後の水戸藩主となり、明治16年には家督を篤敬に譲り隠居した。慶喜が将軍家を隠居した時の年齢に一つ足らない31才の若さであった。


39 慶喜は文久3年12月21日に東本願寺から御池神泉苑通りにあった若狭小浜藩酒井家の空き藩邸に移り、慶応3年9月21日、二条城に移るまで京都住まいの本拠とした。
40 『慶応二年寅正月 御用留』(財団法人 水府明徳会所蔵 番号12425)、慶応二年三月一三日条。
先日一橋様へ御出之節写真鏡ニ而民部大輔様御相を為御取ニ相成候由ニ而三枚市之進方相廻候、其内壱枚ハ貞芳院様御側へ御指上被成候様一橋様ヨリ御沙汰被為在候事
41 撮影時の特定は史料の精査を待たなければならないが、昭武が衣冠を着用していることから、元治元年(1864年)11月19日に従五位下に叙任され、同28日に民部大輔となっている頃が一つの目安にはならないかと想像される。
42 山川浩『京都守護職始末』(東洋文庫60、平凡社、1966年)、223頁。なお、筆者の山川浩は京都守護職在職中の容保のそば近くに仕えた人物である。
43 『徳川慶喜公伝』史料編三、282頁。
「七六三 明治元年正月三日清水昭武への書翰」
一、 博覧会展観後、條約済各国江罷越、可致尋問候事。
一、 各国尋問済次第、仏蘭西へ留学可致、尤凡三ヶ年乃至五ヶ年程之積り相心得、若学業未た手ニ入兼候ハヽ、尚年限相増し可申事。
一、 留学中者其師を重んじ、我意を張候様之義致間敷候事。
一、 御国事変有之義、風聞承り候共、妄ニ動き申間敷事。
一、 滞在中者、附之者一同一和、聊一分之私意を立間敷事。
正月三日
 ただし、標題の明治元年は慶応3年の明らかな誤りであるので、本文では、慶応3年にこの書翰が渡されたと言う前提で話を進めている。
44 版画のキャプションにはマルセーユのWalery撮影の写真によるとある。ちなみに、昭武の従者は向かって左から、菊池平八郎、加地権三郎、大井六郎左衛門。
45 訳文は註27金井前掲書による。
46 註45に同じ。原文は次の通り。
The present Tycoon was adapted by the family of Stotsbashi, one of the Gosauke branch,became its head, and succeeded to the tycoonate. His brother,Minbutaiho, now in England, was adopted by the Simidzu family, also of the Gosauke branch;and as its head, will,in all probability, succeeded the present Tycoon, if he
dies without children.
47 『岩倉具視関係文書三』(日本史籍協会叢書20、東京大学出版会、1983年)、505頁。「二四七 三条実美書翰「岩倉具視宛」明治元年五月四日」
48 註47前掲書。505頁。同書翰。
水戸家江相続被仰付候はゝ速に帰国可仕と存候妙策と存候
49 註47前掲書。506頁。同書翰。
民部大輔義清水江相続に相成居候由に候左候はゝ猶更水戸家相続六ヶ敷候歟此義も御評議可被下候利害を以考候へは一日も早く仏国より取帰候方可然存候
50 註47前掲書。517頁。「二五二 岩倉具視書翰案「三条実美宛」明治元年五月一三日」
一、(前略)仏国出張民部大輔家督相続之義尤至当政府評議も一同可然旨に候乍去小子存候には慶喜同居に相成候辺聊懸念に付帰国之際に至候はゝ慶喜は他に御移し有之度候
51 戸定歴史館保管の山高信離(未公刊)416件中には、平岡丹波守、河津伊豆守、大久保一翁らから、昭武の傳役だった滞仏中の山高信離へ宛て、一行の帰国を要請する達書、書簡が計三通含まれている。文面は一刻も早い昭武一行の帰国を求める緊迫感に満ちているが、既に公職を退いている彼等がこれらの書簡を送る背景には、新政府の意向との関係が検討されて良いのではなかろうか。

参考図

6.維新後の徳川慶喜-徳川家の家扶日記から-

 この展覧会ノートでは、将軍のポートレイトの意味するところを探ってきたが、それらは、公のものとしての色彩が濃かったと言えるだろう。しかしながら、様々なポーズをとり、ある時はフランスの軍服姿で、またある時は外国人の構えるカメラの前に立つ姿の中に、慶喜の私的な写真に対する関心が潜んでいたこともまた忘れるわけにはいかない。
 これまで大名層と写真との関わり方をその公と私の要素の混在の中に探って来た。最初に述べたように、大名層の写真は公のものとして始まり、幕末期までは程度の差こそあれ、その要素は常に含まれていた。明治維新を迎えると、彼等の写真から公としての要素は消えてゆく。維新後の慶喜は、底流として流れていた私としての関心と共に、写真との関わりを持ち続け、初期のアマチュアカメラマンのひとりとなってゆくことになるのである。
 明治という時代に入り、慶喜は世間との交流を断ち、沈黙を守り続けた。幕末期の活躍が華々しければ華々しいほど、その沈黙の意味するところは深いように思われる。過去、明治に入ってからの彼については、触れられることは少なかったが、ここでは、写真という視点から、維新後の彼の姿を追ってみたい。

 慶応4年2月12日、江戸城を出た慶喜は、上野寛永寺大慈院に入り、謹慎生活を送ることになった。4月15日には水戸に移り、弘道館で謹慎を続けている。5月に入ると徳川宗家(将軍家)の処分が決定した。24日、三条実美は徳川家を駿府府中(現在の静岡県)に封じ、七〇万石を与えるとの勅諚を伝達するのである。以後慶喜の身分は徳川宗家の隠居ということになる。7月19日には静岡の宝台院に移り、謹慎が免ぜられる明治2年9月28日までここで謹慎生活を送る。謹慎を解かれた慶喜は、10月5日には静岡の紺屋町元代官屋敷へと転居した。
 彼は徳川家の隠居という身分ではあったが、独立した屋敷に住んでいたため、そこでは『家扶(かふ)日記』(52)がつけられていた。華族各家では出勤簿をかねた当番日誌が作成されていたが、各家の家扶(家政運営担当者の役職名)がその筆を執ることが多かったので、これらは家扶日記と通称される。家扶日記の記述はその性格から簡潔ではあるが、長期間に渡って書き継がれているため、その家の動静を知る上で貴重な情報を提供してくれる。明治5年からのものが伝えられている徳川慶喜の『家扶日記』によって、彼と写真との関わりをしばらく見て行くことにしよう。
 明治5年5月26日の記事には、中島鍬次郎が博覧会御用掛を命じられたため、慶喜の「御番」を除かれたとある(53)。中島鍬次郎という名前は、慶喜が将軍時代に何枚も写真を撮影させたと言われている写真師と同名である。写真師の中島鍬次郎は慶喜との関わりがいろいろと言われる割には史料に乏しく、正確なところは良く分らない。彼と『家扶日記』の中島鍬次郎が、同一人物かどうかも今のところ不明だが、『家扶日記』に見える中島鍬次郎の以後の事歴は次のようなものである。明治5年8月2日、俸金は追々返済すればよいことが彼に伝えられ、8月27日には博覧会の模写の御用が済んだため、その仕事を免ぜられた(ここでは中島仰山と記される)。9月4日には俸金の半月分が鍬次郎から返還され、9月26日には、東京転居のため慶喜邸へ暇乞に出ている。まとめてみると、彼は、毎月の給料を貰い、慶喜の御番を務めていたらしい(御番とは具体的にはどの様な仕事をしていたのかは不明だが)。彼は仰山(彼の号と思われる)とも呼ばれていたが、博覧会の模写の御用掛となったため、一旦慶喜の元を離れ東京に出て、その後東京に転居するため慶喜の元を離れたということになる。
 中島鍬次郎という名前を他の記録に求めると、慶喜の水戸下向に先立ち、明治元年4月5日にその御供を命じられた人物の中にその名が見え(54)、後年の慶喜の回想中に、宝台院に謹慎中、彼から油絵を習ったことが述べられている(55)。この一連の人物が、『家扶日記』の中島鍬次郎と同一人物だと仮定すると、中島鍬次郎は遅くとも、明治元年4月の水戸下向から慶喜の側にあり、宝台院時代には油絵を教え、明治5年5月までは慶喜の「御番」を務めていたことになる。残念ながら、いずれの記録にも彼と写真との関係は見出せない。写真師中島鍬次郎との接点は得られぬままである。
 慶喜は、幕末期から自身で写真撮影を行っていたと言われることもあるが、明治初期の『家扶日記』では被写体として写真に写されたと思われる記事の他、写真撮影を行った根拠となり得る記述は見られない。写真撮影の事実がはっきりしてくるのは、明治中期、湿板写真から乾板写真の時代に入ってからのことである。
 彼の写真撮影の事実が確認されるのは明治26年からである。この年の『家扶日記』は突如という感じで、連日の様に彼が写真撮影を行ったことを記録している。詳しくは巻末の「徳川慶喜・昭武関係年表」を見てほしい。明治26年から明治28年にかけての彼の熱中ぶりが窺えよう。彼の作品中、静岡の景物を撮影した写真はこの時期に多く撮影されと推定されるのである。彼の住んでいた静岡の西草深の近くには浅間神社、安倍川、臨済寺、久能山東照宮などの名所があり、彼は度々撮影のためにそこを訪れた。一橋徳川家伝来写真中には、これらの場所を撮影した写真が含まれている(現在は茨城県立歴史館、茨城新聞社所蔵)。台紙や形状などから見て、これらは一連のものと考えられるが、残念ながら記録を欠いている。一方、臨済寺には明治28年、慶喜が奉納した写真アルバムが伝わっている(図版37)。『家扶日記』には彼が何回かに渡って同寺を訪れたことが記録されているが、撮りためていた写真を明治28年になって一冊のアルバムにまとめたものがこの写真アルバムと考えられる。このアルバム中に一橋徳川家伝来の写真と同一の原版を用いた写真(図版37-1)が含まれており、これにより、他の浅間神社、安倍川、久能山東照宮などの写真も慶喜によるものと推定されるのである。
 彼の撮影行にともない、熱心に写真の指導をしたのは、写真師徳田孝吉である。彼は、安政4年(1857年)、江戸麻布市兵衛町の代々の幕臣の家に生れ、長兄が戊辰戦争で亡くなったために、その十代目となった。明治2年、朝敵として幽閉されていた松本良順に写真術を学び、さらに明治7年、浜松に赴き、根岸常義に入門して二年間研鑽を積んだ。明治9年、静岡に写真スタジオを構えたと言われている(56)。『家扶日記』の明治26年6月8日に彼の名が見えるのを最初として、以後度々慶喜のもとへ彼は出頭した。「本邦写真家列伝」には、ある日、彼が慶喜と鈴川辺へと写真撮影に赴いた折、汽車の中でうたた寝をしてしまい、目が覚めた時には既に慶喜が降車していたため、あわてて引き返したと言う話が掲載されている(57)。『家扶日記』には明治26年の9月10日、11月4日、同25日に慶喜が鈴川辺へ徳田を伴い写真撮影に赴いたことが記録されているが(58)、先程の話はこの日を含めて明治26年から明治28年にかけて、彼が最も頻繁に慶喜のもとへと出入りしていた時の事と推測されるのである。
 『家扶日記』を読んで行くと、明治26年からは慶喜と徳川昭武、篤敬、家達らとの写真をめぐる交流も散見されるようになる。明治20年代に乾板写真が普及し、湿板写真時代に較べて容易に撮影が行えるようになると、アマチュア達の写真愛好熱は高揚し、写真団体も創設されるようになる。華族層も写真愛好熱の広がりとは無縁ではなかった。水戸徳川家の一二代目当主である徳川篤敬は、大日本写真品評会の会頭を務めていたし、昭武、家達なども自ら写真撮影を行うようになる。これまで、孤独な側面が強調されるきらいのあった静岡時代の慶喜だが、『家扶日記』からはこれら一族の人々との盛んな交流が読み取れる。写真についても同様である。彼はしばしば、昭武、篤敬らを伴い写真撮影に出掛けたり、撮影した写真の交換を行っている。また、篤敬を通じて撮影に必要な写真原版や写真器械を購入したとの記載が『家扶日記』に見えている。
 『家扶日記』を通じてみると、彼が最も写真撮影に熱中したのは明治26年から明治28年の間であるようだ。この時期を過ぎると、写真関係の記載は少なくなる。写真を撮影することが当たり前のことになり、特に記録しておくほどのことではなくなるのかもしれない。
 彼が、静岡を離れ、東京の巣鴨に転居したのは明治30年の年末のことである。東京に出てきてからの慶喜は、昭武と行動を共にすることがますます多くなる。二人が共に行ったのは、狩猟、写真撮影、釣、製陶などであった。写真との関わりを探る本稿では、あまり話題の対象とはしなかったが、二人が生涯を通じて最も親しんだ趣味は狩猟であったと筆者は考えている。現在の松戸の戸定邸周辺は、当時でもかなりの猟が出来たので、慶喜はしばしば戸定邸を狩猟がてら訪れた。カメラを携えて来た時には、戸定邸や松戸の風景を写真に残している。
 『家扶日記』の記載こそ少なくなるが、彼が東京に出てきてからも精力的に撮影を行っていたことは、徳川家の写真アルバム(図版34、35、36)や松戸徳川家に残された写真から窺われる。これらの写真は一族の人々に贈られたばかりではなく、写真投稿誌『華影』(はなのかげ)にも発表されていた。戸定歴史館の調査では、少なくとも慶喜撮影の写真9点が『華影』に掲載されたことが確認されている(図版77~85)。調査中ではあるが、『華影』について少し触れておこう。『華影』は華族の写真愛好者によって発行されていたと考えられる写真投稿誌である。発行年月日が不明のものもあるが、現在までのところでは明治36年から明治41年にかけて刊行されたことが判明している。基本的なスタイルとしては、各号毎に「絵画」、「雨後」などの題が与えられ、それに応じた写真の投稿を募り、応募された写真をコロタイプ印刷で掲載した。評者には写真家の小川一真と画家の黒田清輝がおり、各百点づつの持ち点から投稿作を採点し、両者の合計点の高いものから順に一等、二等などの入選作が選ばれていた。ちなみに、慶喜はここで二等に入選している(図版77)。他に、『華影』に投稿していた徳川一門の関係者の名前を挙げると、昭武や一橋徳川家一一代当主の徳川達道、慶喜四男の厚などがいた。
また、『華影』の他にも『家扶日記』には写真師中島待乳が、明治33年12月12日、慶喜の写真を大日本写真協会雑誌へ掲載してもらいたいとの依頼を行ったことが記されている(59)。
『家扶日記』から見ても、松戸徳川家に残されている家扶日記に相当する日記から見ても、慶喜の数多い兄弟の中で最も仲の良かったのは昭武だろう。両者には共通点が多い。維新後はともに旧幕府系の華族という立場であり、二人とも30才を過ぎて間もなく隠居、趣味も共通していた。慶喜が最も写真に熱中したのが明治26年~明治28年、昭武は明治39年~明治41年と、ともに55才前後のことであった。明治31年3月2日、慶喜は維新後初めて天皇に拝謁したが、いつもは淡々と出来事を記すだけの昭武にしては珍しく、彼はその喜びが大きかったことを自らの手控えに記している(60)。同35年6月3日、慶喜は公爵を受爵、新たに一家をなすことになった。彼は、社会的に認知されたことになる。しかし、彼の胸の内を知り得る史料はない。彼は、沈黙を守ったままである。公爵の爵服を着た慶喜のポートレイトが残されている(図版90)。そこでの慶喜を何と表現したらよいのだろう。凛としてあくまでも気高い。彼の姿の中に、もう一つの明治があるような気がするが、沈黙の深さゆえに、確たることもわからぬままである。語らぬままに、彼は明治を撮影した数々の作品を残してくれた。明治43年、16才年長の兄を残して昭武が亡くなった年、慶喜は三度目の隠居をした。今度は本当の隠居である。大正2年11月22日、彼は薨ずる。77才であった。


52 詳しくは展示品解説参照。
53 徳川慶喜『家扶日記』明治五年五月二六日条。
54 『続徳川実紀』第五篇(新訂増補国史大系、吉川弘文館、1967年)明治元年四月五日条。
55 渋沢栄一編『昔夢会筆記』(東洋文庫76、平凡社、1966年)294頁。なお、この回想が語られているのは大正2年5月3日である。
56 栗園「本邦写真家列伝(其十四)」(『写真新報』162号、1912年)。
57 註56前掲書。
58 徳川慶喜『家扶日記』九月一○日条
午前八時五十一分発汽車ニテ鈴川辺へ御写真ニ被為入候御供新村徳田御帰殿六時半
一一月四日条
今朝八時五十一分発汽車ニテ富士川鈴川辺へ為御撮影被為入午後五時五十八分着汽車ニテ御帰邸之事御供曲淵徳田御召連之事
一一月二五日条
午前八時之汽車ニテ鈴川辺へ被為入御供木原外徳田御召連御帰殿午後2時過
59 徳川慶喜『家扶日記』明治三三年一二月一二日条
為御機嫌伺中島待乳出頭御菓子上ル大日本写真協会雑誌へ挿入致度旨ヲ以テ御撮影写真近日拝借仕度申出御聞置相成(後略)
 その後、実際に写真を貸出したかどうかは不明である。なお、この他にも、中島待乳は慶喜のもとへ年賀の挨拶に訪れるなど、『家扶日記』には慶喜との交流が記される。少し脱線することになるが、石黒敬章氏のご教示によると、石黒コレクションの中島待乳旧蔵品中には、慶喜からもらったと待乳自身が記録している幕末期のレンズがあるという。『家扶日記』による中島待乳の記録の信憑性を高め一つの根拠になるだろう。ちなみに、このレンズは慶喜がナポレオン三世から贈られたとも、昭武が第一次渡欧から持ち帰り、慶喜に渡したものであるとも言われている。
60 徳川昭武『戸定備忘録 第四号』(未公刊、『松戸徳川家資料目録』第一集 文書3―一―十六)明治三一年三月三日条。
一 慶喜様昨日御参内両陛下へ御拝謁之上種々御拝領物有之タル旨今朝篤敬ヨリ通知アリ維新后初メテノ事ニテ近親之喜悦之ニ不過

7.おわりに

 展覧会の準備を進めてゆくにつれ、様々な情報が集積されてくる。いずれも、展覧会を企画するものにとっては、魅力的な情報ばかりである。しかし、それらのすべてが、展示に反映され、展示品解説などの形になってゆく訳ではない。展示の趣旨に従って選択を加えらるものもあるし、時間、人、もの、金などの様々な事情から将来の展覧会を待つ事になる情報もある。当たり前の話だが、展覧会は、展覧会の実施に必要なすべての条件をクリアーしたものだけで構成されている。展覧会を企画するものは、それらを用いてどの様に話を進めて行くか、言い換えれば、いかに垂直の方向に話の筋道をつけて行くかに腐心するわけである。しかし、その一方で、その道筋を探しだすには水平方向に広がる情報が欠かせなかった。それらの多くは展示の表面に出てくる事はないが、展覧会には欠かす事の出来なかったものである。
この小文は、そういった、展覧会の準備の段階で知り得た情報やその段階で考えた事柄のノートを公開する試みである。水平方向への広がりを意識しているので、結論を得るに致っていない調査中の事柄も記されている。準備の結果として実施された展覧会だけでなく、その背後にある情報をも共有したいという趣旨からであるが、展覧会を見ていただく上でなにがしかの参考にでもなればと念じている。

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休館日:月曜日(祝日の場合にはその翌日)、年末年始(12月28日から1月4日まで)、歴史館のみ展示替え期間

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