このページの先頭です
サイトメニューここから
このページの本文へ移動

徳川昭武(とくがわあきたけ)

徳川昭武(とくがわあきたけ)は戸定邸を作った人です。


昭武ってどんな人だったの?

昭武の幼少期

 1603年、徳川家康(とくがわいえやす)という人が将軍(しょうぐん)になり、世の中(よのなか)を治(おさ)めるようになりました。家康のあとも子孫(しそん)の徳川家の人びとが将軍となり、1867年まで日本を治めました。この時代(じだい)を江戸時代(えどじだい)といいます。その徳川家の親族(しんぞく)には、御三家(ごさんけ)という3つの家があり、尾張(おわり)※1、紀伊(きい)※2、水戸※3、を治めていました。江戸時代には、県ではなく、300ほどの藩(はん)という単位(たんい)で治められていました。藩の一番偉い(えらい)人を藩主(はんしゅ)といいます。
 昭武は、水戸徳川家の9代藩主だった徳川斉昭(なりあき)の18男として生まれました。母は秋庭(しゅうてい)という人で、京都(きょうと)の公家(天皇(てんのう)に仕える(つかえる)身分(みぶん)の高い人)の生まれです。昔(むかし)の身分(みぶん)の高い人は、何人も奥さん(おくさん)がいました。昭武の母親違い(ちがい)のお兄さんが最後(さいご)の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)です。慶喜のお母さんは天皇の一族(いちぞく)出身(しゅっしん)でした。
 昭武は9歳まで水戸で暮(く)らし、10歳のときには京都で天皇の住まい(御所(ごしょ))の警備(けいび)を担当(たんとう)することになりました。そのときにお兄さんである慶喜に才能(さいのう)を見いだされます。慶喜が将軍になる直前、昭武も将軍家の家族(かぞく)として迎え(むかえ)られました。

※1愛知(あいち)県(けん)、※2和歌山(わかやま)県、※3茨城(いばらき)県

パリ留学(りゅうがく)時代

 昭武は13歳のとき慶喜の代理(だいり)として、フランスで開か(ひらか)れるパリ万国博覧会(ばんこくはくらんかい)に参加(さんか)することになりました。パリに到着(とうちゃく)した昭武は、万国博覧会に参加したり、フランス皇帝(こうてい)ナポレオン3世(せい)と会見するなど、大忙し(おおいそがし)でした。さらに、スイス、オランダ・ベルギー、イタリア、イギリスを訪問(ほうもん)し、大統領(だいとうりょう)や国王と会見しました。各国(かっこく)訪問がいち段落(だんらく)すると、慶喜のいいつけ通りに留学生活を始め(はじめ)ました。フランス語(ご)や歴史(れきし)だけでなく、絵画の授業(じゅぎょう)までありました。慶喜はナポレオン3世に頼(たの)んで、昭武の教育(きょういく)係(がかり)を紹介(しょうかい)してもらいました。この教育係となった軍人(ぐんじん)ヴィレットとは、ヴィレットが亡(な)くなるまで40年間にわたって交流(こうりゅう)を続け(つづけ)ました。
 その頃(ころ)日本では江戸幕府(ばくふ)にかわって、明治新政府(しんせいふ)が誕生(たんじょう)します。昭武は留学を中断(ちゅうだん)し、日本へ帰国することになりました。帰国した昭武は実家(じっか)の水戸徳川家を継(つ)ぎました。その後、藩ではなく現在(げんざい)の「県(けん)」とすることになったため、彼(かれ)は最後(さいご)の水戸藩主となったのです。

明治時代(めいじじだい)

 明治(めいじ)時代(じだい)になると、水戸藩主(はんしゅ)という職務(しょくむ)から解放(かいほう)された昭武(あきたけ)は、少しの間陸軍(りくぐん)に勤め(つとめ)たあと、アメリカのフィラデルフィア万国博覧会(ばんこくはくらんかい)に参加(さんか)することになりました。万博(ばんぱく)が終わる(おわる)と、再び(ふたたび)ヨーロッパに渡っ(わたっ)て、5年間留学生活を送(おく)ってから帰国しました。
帰国した昭武(あきたけ)は結婚(けっこん)、隠居※(いんきょ)の後、戸定邸を完成(かんせい)させました。定期的(ていきてき)に天皇(てんのう)のもとに出かけるなど、東京で用事(ようじ)のないときは、戸定邸で趣味(しゅみ)を楽しむ時間を過(す)ごしました。
※家の主(あるじ)の立場を次(つぎ)の人に譲る(ゆずる)こと


戸定邸には昭武だけが住んでいたの?

ホームページキャラクターまつまつの画像

昭武専用(せんよう)のお屋敷(やしき)といったけれど、徳川昭武とその家族(かぞく)(昭武の母秋庭(しゅうてい)・妻(つま)八重(やえ)と学校にいくまでの子どもたち)も住んでいたんだよ。小学校に上がった子どもたちは、華族の子どもたちが通う学校が東京にあったので、東京の小梅邸で暮らしていたんだ。
みんなのお家は家族(かぞく)だけで暮らしているよね。でも当時の徳川家では、家族の身の回り(みのまわり)の世話(せわ)をする職員(しょくいん)がいて、その職員の家族も、戸定邸の敷地(しきち)内にあった職員用の住宅(じゅうたく)に住んでいたんだよ。

昭武は当時では珍しいあるデザートの作り方をしっていたんだけれど、それはなぁに?

アイスクリームの作りかたをお兄さんの慶喜(よしのぶ)や、娘(むすめ)たちに教えていたんだよ。

昭武は料理に興味があったようです。お兄さんの慶喜(よしのぶ)も柏餅(かしわもち)やいちごジャムを手作りしていました。

お問い合わせ

生涯学習部 文化財保存活用課 戸定歴史館
千葉県松戸市松戸714番地の1
電話番号:047-362-2050 FAX:047-361-0056

本文ここまで

サブナビゲーションここから

戸定歴史館(とじょうれきしかん)

クイズ

インターネットを使うときの注意

キッズおやくだちリンク集

音声読み上げ・文字拡大

お気に入り

編集

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。
Copyright © Matsudo City, All rights reserved.
フッターここまでこのページのトップに戻る