通常展徳川家の肖像
ごあいさつ
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写真を趣味としていた徳川昭武(1853-1910)の手元には、幕末に撮影した肖像写真、明治時代になって、自らが撮影した写真等、膨大な数の写真が集積されていました。 今回の展覧会では、これらの中から肖像写真に焦点を当て、徳川昭武(あきたけ)と交流のあった徳川家の人々を紹介します。 一枚の肖像写真には、様々な情報が焼き付けられています。当時の人々の容貌、表情、服装、ポーズ、持ち物、背景。それらは、現在とは異なる時代を生きた人々の姿を伝えるばかりでなく、当時の社会のあり方までも語りかけてくれるでしょう。 展示している写真は、すべて当時のオリジナルプリントです。複写写真では味わうことの出来ない、味わいをご堪能いただければと思います。 展覧会の開催に際しましては、資料所蔵者の松戸徳川家当主・徳川文武様、展示資料を寄贈していただきました堀内和夫様のご協力を頂戴いたしました。厚く御礼を申し上げます。 松戸市戸定歴史館 |
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展示内容
第1章 徳川昭武の生涯
| 戸定邸(とじょうてい)の主人である徳川昭武は、9代目水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の十八男として、嘉永6年(1853)に生まれました。この年、ペリー艦隊が浦賀沖に姿をあらわし、以降日本は近代化への道を歩んでいきます。そして、57年におよぶ昭武の生涯もまた時代の波にほんろう翻弄されることとなります。禁裏守衛(きんりしゅえい)のための上京、パリ万博への列席、水戸藩主就任、再度のフランス留学、麝香間伺候(じゃこうのましこう)拝命…。ここでは、主に肖像写真によってその波乱の生涯をたどります。 | ![]() |
第2章 昭武の家族たち
| 明治8年(1875)、昭武は公家の娘・中院瑛子(なかのいんえいこ)と結婚し、8年後には長女・昭子が誕生しました。しかし、間もなく瑛子は病没。失意の昭武は甥の篤敬(あつよし)に水戸徳川家当主の座を譲り、生母・万里小路睦子(までのこうじちかこ)とともに、ここ松戸の地に移り住みました。その後、昭武は旧幕臣の娘・斉藤八重との間に、三男(武麿・武定・武雄)三女(政子・直子・温子)をもうけています。松戸徳川家に数多く残る家族の写真の中には、昭武自身が撮影したものもあります。ここでは、その一部を紹介します。 | ![]() |
第3章 兄慶喜というひと
| 徳川慶喜(よしのぶ)は天保8年(1837)、水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれました。昭武とは16歳違いの異母兄弟で二人は非常に仲の良い兄弟でした。慶喜は将軍継嗣争いに巻き込まれて以来、将軍後見職(こうけんしょく)、禁裏守衛総督、将軍と立場を変えながらも常に政局の中枢に立たされました。結果、朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられ、名誉回復には実に30年以上もの歳月を要したのです。その間、彼は静岡で趣味に興じ、政治には一切かかわりませんでした。ここでは、昭武の兄慶喜を紹介します。 | ![]() |
第4章 慶喜の家族たち
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慶喜は安政2年(1855)、公家一条忠香(ただか)の養女・美賀(みか)と結婚、2年後に一女をもうけますが早世してしまいます。幕末の動乱の中で多忙な慶喜には、その後しばらく家庭を顧みる余裕はありませんでした。彼にその時間が与えられたのは、維新後のことです。そして、2人の側室との間に十男十一女をもうけます。男子は早世したものを除き、いずれも名家を継いで華族に列せられ、女子は皇族、華族のもとに嫁ぎました。ここでは、その慶喜の家族を紹介します。 |
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第5章 徳川家の人々
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幕末、徳川の姓を名乗ることのできる家は、7家しかありませんでした。将軍家と尾張・紀伊・水戸の御三家、田安・一橋・清水の御三卿(ごさんきょう)です。御三家、御三卿は将軍家に男子がない場合、後継者を出しうる家柄でした。江戸時代の徳川姓は特別な存在だったのです。 |
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第6章 普段着の昭武
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昭武は多彩な趣味の持ち主でした。若くして隠居した昭武はその後の人生を趣味人として生きました。昭武は古くから武士のたしなみとしてあった弓や狩猟のほかにも、写真や自転車といった新しい趣味も開拓していきました。幼き日にフランスに渡った昭武は、すすんで生活のなかに西洋的な要素を取り入れていったのです。そして、これらの趣味を通じて、慶喜や徳川達道(さとみち・一橋家11代)等と交流を深めていきました。ここでは、昭武の多彩な趣味の一端を写真と文書類で紹介します。 |
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