最後の将軍 徳川慶喜

最後の将軍 徳川慶喜

<解説>松戸市戸定歴史館学芸員 斉藤洋一

   終生に渡り、兄慶喜と深い心の交流を持った徳川昭武の生涯は、慶喜の存在を抜きにしては語れません。これまでの慶喜に対する語り口は、幕府政治に終止符を打った人物ということに終始している観があります。
しかし、彼には改革者としての見過ごせない一面があります。対外情勢の変化に対応すべく、フランスとの連携を深め、時と競うようにして幕府の抜本的な大改革を押し進めていたのです。
 昭武のパリ万博派遣も、慶喜の 遠大なる政局運営の一翼を担っていました。ここでは、志半ばで政治の表舞台から去っ た慶喜について、紹介することにしましょう。 

水戸徳川家に生まれて

  徳川慶喜は天保八年(一八三七年)九月、今は東京ドームが建つ場所にあった水戸藩上屋敷で生まれました。父は昭武と同じ水戸藩九代藩主斉昭、母は斉昭の正室有栖川宮吉子女王。慶喜は斉昭の七男、昭武は十八男になります。
慶喜は、幼少の頃から聡明さを謳われ、水戸で厳しく養育されました。
   十二代将軍家慶からも期待を受けていた彼は、十一才の時に一橋徳川家に養子に入ります。一橋家は将軍家の家族の扱いを受ける存在で、当時、将軍の座に最も近い家柄のひとつになっていました。
   彼は将軍の有力候補の一人になります。 嘉永六年(一八五三年)、ペリーの黒船来航により、わが国が大きく揺れ動き、確固たる方針を幕府が打ち出せない中、十三代将軍家定は亡くなります(一八五八年)。
   子供のいなかった家定の次の将軍を誰にすべきか。紀州藩主慶福(後の家茂)を推す将軍の血筋を尊重する一派と慶喜を推す将軍の政治的能力を重視する一派が激しく対立しました。 結局 、十四代将軍は家茂になりますが、この政治的対立は慶喜を推していた人々への弾圧をもたらし、その余波で、慶喜も隠居謹慎を命じられることになります。
   数えで二三才の時でした。再び中央政局へのただ中へ約三年の空白の期間を経て、再び彼が、中央政局に登場するようになるのは、一八六二年のことです。
  政局に対する発言力を強めていた朝廷の意向を受けて、彼は将軍後見職に就任します。この時期の中央政局の舞台は、江戸から京都へと移っていました。 朝廷の意向が政局へ の決定的な影響力を持つようになっていたからです。幕末の政局は幕府と朝廷、そして雄藩(薩摩・長州・会津・越前など)やフランス、イギリスなどの外国勢力との間のパワー バランスの変化に対応して、複雑な軌跡を描きます。
   政治家としての慶喜は、幕府と朝 廷との板挟みに会いながら、京都を舞台にして苦闘を続けることになるのです。

改革者としての徳川慶喜

元治元年(一八六四年)政治閉塞状況の中、 慶喜は将軍後見職を辞任し、天皇から任命された禁裏御守衛総督に就任します。この役職は、その名が示すとおりの京都御所の警備総責任者ということに止まらず、将軍と同格以上の政治的影響力を行使しうる重要 なポストでした。

 昭武が上京し、慶喜と共に働くのもこの時期に当たります。 慶応二年(一八六六年)、一四代将軍家茂が亡くなり、慶喜は一五代将軍に就任します。幕府という組織の頂点に立ったことで、彼は、初めて自らの意志により、幕政の大改革に取り組むことが可能になりました。

 薩摩、長州の倒幕勢力が台頭する中、時と競うようにして、慶喜は幕府の根本的軍政改革、機構改革を押し進めます。

徳川慶喜
『錦絵・教導立志伝(徳川慶喜)』 小林清親画 外交面でも、将軍自らがフランス料理を振る舞い、各国公使との交流に取り組むなど、 彼は伝統的な将軍のあり方を打破した活躍を見せるのです。その姿は、倒幕側からも、家康の再来を見るようだとまで評されました。

 しかし、衰退する幕府を支えることは、彼の能力をもってしてもいかんともしがたく、慶応三年(一八六七年)一〇月の大政奉還、一二月の王政復古の クーデター、翌年正月の鳥羽伏見の戦いでの敗戦を経て、幕府の政治は終焉を迎えるこ とになるのです。

『錦絵・教導立志伝(徳川慶喜)』 小林清親画

維新後の慶喜

維新後、慶喜は大正二年まで生きます。政治的な事柄との関わりを極力避け、新しい政治体制の中に、徳川家をいかに軟着陸させるかが彼のテーマであったかに見えます。

三十年間の静岡隠棲生活を終え、明治三十年、彼は東京へ移住します。翌三一年には、維新後初めて明治天皇と謁見、明治三五年には公爵の爵位を授けられました。

   東京時代の 慶喜は、維新直後の朝敵という評価から一転して、明治維新最大の功労者として位置づ けられました。

『葵紋付単衣』 徳川慶喜所用

『葵紋付単衣』 徳川慶喜所用 


ごく親しい身内として交流を欠かさなかった慶喜と昭武ですが、東京に出てきてからの慶喜は、狩猟、写真撮影、魚釣り、製陶などのために、松戸の戸定邸を頻繁に訪問 しました。 昭武と同じく、写真を趣味としていた慶喜は、戸定邸を初めとする松戸の光景を撮影しています。これらの写真も、昭武のそれと共に、大切な松戸の記憶となったのです。

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